12月の説明会を機に「やっぱり記者になりたい」
記者という仕事に就きたいという気持ちは、幼い頃からぼんやりと抱いていた。新しいことを知る"ということに何よりも喜びを感じていた私は、記者という仕事なら最前線で物事に触れられると考え、小学校の卒業文集にも「将来の夢は新聞記者」と書いた。ただ、記者になるということが甘くないことも知っていた。倍率は高く、高学歴の人ばかりというイメージもあった。そのため、高校に入学する頃には記者は叶わない憧れで、現実的には地元で普通の会社員になるのだろうなと考えていた。そんな思いのまま地元の大学に入学、気がつけば大学3年の冬、部活引退が迫っていた。地方紙がメインの試験は4月から本格化
全国紙は3月から本選考が始まるが、受かる気もしない上にESが間に合わず、朝日、読売、日経は諦め、ギリギリでESが提出できた共同通信が私にとっての最初のマスコミ受験となった。共同通信の1次は面談と筆記試験だったが、どちらも惨敗だった。急いで作り上げたESの出来はひどく、面接中に自分でもこれでは受からないと感じ、ESの大切さを感じた。ESは選考の材料という役割に加え、面接を進める際の資料にもなる。そのため、ESの内容が悪いと、まともに自分をアピールできる面接にならない。共同の敗退で、やはり自分には大手マスコミは無理だと悟ったが、それと同時に今の自分の改善点も見え、次にこれを活かそうというやる気も湧いていた。ブロック紙の内定を得て全国紙やNHKも受験
ゴールデンウィークが明けると、一気に試験が立て込んだ。5月は自分にとって優先度の高かったブロック紙、規模の大きな地方紙の試験が続いた。マスコミの面接で聞かれる質問は比較的似ており、面接を経験すればするほど、次に活かすことができた。面接終了後には近くのカフェに直行し、聞かれた質問と、それに対して自分が言ったこと、次に改善する点をまとめるという作業を続けていた結果、手応えも徐々に増してきた。