「難しい」と思わず目指してほしい

Wさん/全国紙、出版社内定


 幼い頃から本が好きだった私は、いつのまにか新聞や広告などの文字列に目を走らせるのが趣味になっていた。ただの文字であるのに、読む人に景色や音、匂いを想起させ、様々な感情を湧き上がらせる「言葉」の力に魅了されていた。自分が書いた文章を誰かに届けたい。自分の「言葉」で仕事がしたい。そう思うようになったのは中学生の頃だった。卒業文集には「将来は記者になりたい」と書いていた。ただ、マスコミ就活が難関であることは百も承知。心のどこかで「どうせ夢は夢のままで終わり、普通に就職するのだろう」と考え、記者に対する思いは心の端に追いやっていた。
 何に対しても楽しそうだと思ってしまう私は、就職活動を始めるにあたって、様々な業界の説明会に足を運び、自分の興味関心をひとつずつ確かめる必要があった。自分がよく知らない業界にも、自分が本当にやりたい仕事があるかもしれないと思ったからだ。10以上の合同説明会に出向き、いくつもの業界の説明を聞き、自分の興味関心の判別が少しずつ付き始めた頃、ある新聞社の説明会と出会った。
 そして言葉にはできない熱い感情が沸き上がった。ただの説明会であるのに泣きそうになった。「やはり私は記者になりたいんだ」と思い知った。私のマスコミ就活はここから始まった。
 それは周囲よりかなり遅れた2月上旬のことだった。このとき既にES締切が迫っている会社もあった。

毎日、報道に触れることを心掛けた

 私は新聞社や通信社など合わせて10社ほどの採用試験を受けた。「春採用でダメでも秋採用がある。秋もだめなら次の春もある」。スタートが遅れた私はそんな気持ちで、自分を無理やり落ち着かせ、マスコミ就活を始めた。
 この時から、欠かさず行っていたのは、毎日必ず報道に触れるということだった。毎日、紙の新聞を一紙以上読むのが理想ではあったが、どうしても気持ちがのらない時や忙しい時は電子版でもいいから新聞を読むようにした。それさえ厳しい時は、テレビでニュースを眺めるようにしていた。報道に必ず触れ続け、日々変わりゆく社会に置いていかれないようにした。興味関心の強いニュースに対しては、自分だったらどう報道するかを考えるようにした。
 また就職活動中であっても、イベントやシンポジウム、展覧会などの情報には常にアンテナを張っていた。好奇心をくすぐられるような場所にでかけ、気になるものを食べ、新しい経験をたくさん積むことを大切にしていたのだ。
 初めはこんなことしていていいのかと不安になることもあったが、その気持ちは就職活動中に出会ったある記者の方に「就職活動は受験勉強のように部屋にこもって必死にやればいいというものではない。たくさんの人に出会い、たくさんの人と話し、情報を集めてほしい」と言われたことがきっかけとなり消えていった。就職活動中、私はこの言葉を大切にし続けた。実際、様々な経験をし、たくさんの引き出しを持つことは、記者を目指す就活生として、後々、面接や作文で活かされることが多かった。
 ESを書く際に大切にしたことは、自分の人生を記した「手紙」として完成させるということだった。どの質問に対しても、かなり具体的に、自分のエピソードを盛り込むようにした。読む人の目にしっかりと光景が浮かぶよう、言葉、日付、人名、場所などを交えて書いた。
 大学3年の冬からマスコミ就活を始めた私は、周囲が勝負をかける夏のインターンシップにも、もちろん参加できなかった。キー局の選考も、既に終わっていた。練習の間もなく報道機関の記者職を受験しなければいけなかった。新聞・報道記者志望だったものの、フリーペーパー編集会社などの説明会にも行った。またSPIや面接などの対策も遅れていたため、複数のリクルート系会社に登録しセミナーに行ったりもした。2月、3月中は、1日で3つ以上の就活の予定をはしごすることがほぼ毎日だった。その結果、足には水ぶくれができ、靴擦れで血だらけになることもあった。

最初の書類落ちでネガティブ思考に

 3月になるとES締切が続いた。
 3月9日正午締切の朝日新聞のESが、最初の提出となった。当時まだ就活を始めたばかりだったため、ESの型もできていなかった。添削もほぼしてもらえず、ぎりぎりで送信した。結果は書類選考で敗退。結果連絡のパソコン画面に「残念ながら〜」の一文が見えた時、目の前がクラクラした。いま思えば、あのレベルのESが通るはずのないことなど簡単にわかることだが、当時はショックから抜け出すのに時間がかかった。「あんなに必死で書いたのに、面接に呼ばれることさえなかった」「直接話すこともできずに門前払いされてしまった」「やっぱり無理なのかもしれない」などとネガティブ思考に陥っていた。  そんな状況でも、時間は進み続ける。日中は説明会をはしごし、夜はESを書くという生活が続いた。早朝に始発で受験先の会社の近くの郵便局にESを出しに行ったことや、郵便局の机でESを完成させたこともあった。睡眠時間が減り、疲れが蓄積されていくと、思考はさらにネガティブになっていく。練習のつもりで受けていた小さな編集会社にも通らなくなり、スランプに陥っていた。
 このままでは、負の連鎖が続くと感じ、思いきって一度休憩してみることにした。入社を強く希望していない会社のESは書くのをやめ、しっかりと睡眠をとるようにした。ES締切ラッシュの合間を縫い、小旅行に出かけ、外の空気を吸うようにした。すると根拠のない焦りは消え、先輩からの「就活は基本落ちるものだ」という言葉がストンと腹に落ちてきた気がした。不可能なことに挑戦しているのではなく、ただ準備が間に合ってないだけ。勉強が足りていないだけだ。だからそこを埋めればいいだけだ、と思えるようになった。
 5月初旬になると、出版社から内々定をいただいた。報道の世界ではないものの、ひとつ内定が出たことで安心感と自信を得た。間違ったことをやり続けてきたわけじゃない、このまま頑張り続ければ、いつかきっと自分が望む世界で働けるかもしれないと思った。

面接を受けるたびに志望意思が高まった

 書類選考で早々に敗退した朝日新聞以降、ESは添削を何度もしてもらい、推敲を重ねたためすべて通過した。
 5月に入ると、筆記試験が続いた。5月19日日経新聞筆記試験、5月20日共同通信筆記試験、5月23日毎日新聞筆記試験、5月24日NHKテストセンター試験、5月26日NHK筆記試験、5月27日中日新聞筆記試験などと、連日試験に追われていた。
 筆記試験対策が十分ではなかったため、問題に対する当たりはずれも大きく、筆記試験で敗退した会社も多くなった。ただ、この頃には落ちることへの免疫もでき始め、通過した会社での選考を頑張ろうと、前向きでいられるようになっていた。
 6月になり面接が始まった。会場に向かうまでは、いつも怖く、「行きたくない、行きたくない」と家族にわがままをこぼすことも多かった。だが、面接が終わるといつも心は満たされていた。各新聞社の面接官は記者経験のある方々が多く、報道に対する思いなど、貴重なお話を聞ける機会でもあった。だから家の玄関を出る時は、逃げたい気持ちを抑え「きっと素敵な時間になる」と自分に言い聞かせるようにしていた。面接を通して、記者への思いはより強くなっていった。
 最後の選考となったのは、NHKだ。倍率も高く、熱い思いをもって受験する人が多いと聞いていた。また自分はテレビもあまり見てこなかったため、放送局を受験すること自体迷っていた。だが、説明会などで私が出会ったNHKの記者の方々が魅力あふれる人たちであったことと、番組作りに対する真摯さにひかれ、採用試験をうけることを決めた。
 記者職で受けた私の1次面接は6月2日。自信のなかった私は、会場に恐る恐る向かった。私の人間性を温かく掘り下げ、見てくれていると感じた。現役記者の面接官と話す時間は楽しく、「こういう人たちと一緒に働きたい」「自分も取材相手とこのような関係を築ける記者になりたい」と思った。  その後の面接においても、NHKの面接官の方々の顔は鮮明に思い出せる。面接時間は20分程度にもかかわらず、非常に濃い時間を作っていただいたからだ。選考のなかで「ここで働きたい」という思いはどんどん強くなっていった。
 NHKの最終面接は6月17日だった。ふかふかの絨毯で緊張が高まりつつも「ここまで来ただけでも良かったと思おう」と、できる限り気持ちを落ち着かせるようにした。特技欄に書いてあるわけでもないが、万が一(?)のことを考え、ものまねの練習をしながら順番がくるのをひとりで待った。
 面接は趣味や関心のある出来事など、一般的なことを聞かれて、あっという間に終了した。それまでお世話になっていた司会の人事の方が、途中で微笑んでくれたことで、優しい気持ちのまま最終面接を終えることができた。
 その日の夜、最終面接通過の電話がきた。外で電話を受けた私は、自分へのご褒美にコンビニでプリンを買い、スキップしながら家に帰った。
 最終的に出版社、放送局、新聞社から内定をいただいた。

結果的に数社の内定をいただいたが

 内定を数社いただいた私だが、決して優秀な人間ではない。国際化が進む社会にもかかわらず英語は苦手でほとんど話せない。マスコミ系の団体に所属していたこともない。ほぼ手付かずで終わった問題集が部屋に転がっている。マスコミ就活生のなかで、私は落ちこぼれの部類に入るだろう。
 けれども、自分みたいな記者がいてもいいはずだ。就職活動中に出会った多くの記者の方々が「記者にはこういう人がなれる、みたいなものはない。色々な社会問題に寄り添うには、多種多様な記者が必要だから」と言っていた。そして結果的に、私のような人間も採用してくれる懐の広い業界であった。
 だから、なりたい思いがあるならば、「今からじゃ無理」とか「自分には難しい」などと言わずに、必死でしがみついてみてほしい。目指さなければ、夢への道は決して開かれない。


試験を受けていて「ここで働きたい」という気持ちが…

Tさん/キー局、出版社内定:
文章を読んでほっとする。映像を見て涙する。人の無事を願ってニュースに聞き入る。そうやって自分の感情を揺さぶられて生きてきた。

やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定:
小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。


「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/放送局内定:
中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、

ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定:
中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。


「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定:
記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。

50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定:
2勝50敗。私の就活の戦績だ。
文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。