「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/広告会社内定


 中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、それが私の夢のスタートとなった。大学受験の時点でマスコミを意識した志望校選択だったし、「広告会社に行きたい」という思いを切らしたことは本当に一日たりともなかった。そんな自分にとって就職活動とは、これまでの延長線上にあるもので、「面倒くさい」「嫌だ」という周りの声とは相反して「やっとこの時が来たか」という思いだった。私の就職活動は、大きく分けて「インターン期」「テレビ本選考期」「広告本選考期」の3期。これらの一つでも欠けていれば今の自分はなかったと思う。

挫折だらけの夏のインターン

 大学2年生までの私は本当に電通一筋で、関西支社のインターンに行ったり、セミナーに参加したりと精を出していた。「内定者が出る」と噂の本社インターンは絶対行くぞ、と3年生の4月頃から電通のホームページを毎日チェックし、情報解禁を待つほどだった。「ナマケモノのキャッチコピーを考えろ」という課題のために動物園にナマケモノを観察しに行ったり、「消しゴムのCMを考えろ」という課題に対して渾身の絵コンテを書いてみたりと奮闘した結果、ES通過。それから電通本社ビルで行われた筆記テストも通過。かなりの倍率と聞いていたので震えるほど嬉しかったし、「今までやってきたことは間違っていなかった!」と舞い上がっていた。
 残るは7月の最終面談…というところで、就職活動最初の洗礼を受けた。部屋に入ると、パリッとした雰囲気の中に7人の面接官。初めての威圧感から、何を聞かれても「楽しかった」「嬉しかった」など小学生並みの受け答えしかできなかった。目はそらすし、姿勢は悪いし、「最後に言いたいことは?」に「もうないです」と答える始末。そもそも部屋に入ってから一度も名を名乗らないまま終わった。今思えば顔から火が出るほどの最悪ぶりだ。もちろんのこと電話は鳴らなかった。
 広告が大好きで、広告業界に関する熱意や知識にはかなりの自信があった。しかし、この時の私は「就職活動の戦い方」を1ミリも知らなかったのだ。自分の無能さに落胆し、しばらくは食事も喉を通らなかった。もぬけの殻状態でエントリーした博報堂とADKの選考にもことごとく落ち、結局夏のインターンには1社も参加できなかった。色々な人に励まされながらなんとか立ち直り始めた頃には、もう9月になっていた。

収穫の多かった秋のテレビインターン

 同じマスコミだし挑戦してみるか、とキー局のインターン選考を受けた結果、日本テレビとTBSのバラエティ制作インターンに参加することができた(テレビ局は局によって社員さんの雰囲気や社風が全く異なる。これは各局の番組を視聴するだけでは分からないため、インターンにはぜひ参加してほしい)。インターン中は、夏の面接の反省を活かして目線や話し方にも気を配り挑んだ。また新たに出てきた反省点や気づきは逐一、就活手帳にリストアップするようにした。「言葉のキャッチボールができていなかった…」「服は顔が明るく見えるから白いほうがいい!」「自分はグループディスカッションではホワイトボード係が向いているのかも…」など、どんな些細なことでも書き残していった(これは就活終了まで続けたが、この気づきの積み重ねが終盤で本当に役に立った)。
 そうこうして改善を繰り返すうちに、12月のTBSインターンでは少人数制の懇親会に招待されるまでになり成長を感じた。広告の練習にと思い参加したテレビ局インターンだったが、「本質を見抜いてものづくりする点は広告と一緒だ!」と気付き、そこからはテレビと広告の2軸で就職活動を進めていった。

再び挫折…でも前向きに頑張ったテレビ局本選考

 12月上旬、テレビ朝日の本選考のエントリーが始まった。とうとう本選考の波が来始めたか…とこの時身構えた。しかし結果から言えば、テレビ局の本選考はどこも思うように進まなかった。テレビ朝日は、序盤は調子が良かった。クリスマスにあった筆記試験では幼い頃からのテレビっ子ぶりが発揮され通過。年明けの1次面接では「○○(番組案)以外にアイデアある?」と言われ「難しい〜! 次までに考えてきます!」と笑顔で答えた素直さがよかったのか通過。しかし次の選考の「アイデアコンペ」の選考スタイルが性に合わず敗退。TBS・日本テレビ・MBSは1次面接で落ちた。特にTBSはインターンの懇親会にまで呼ばれておきながらあっさり落とされたことにショックを隠せなかった。
 しかし夏のように2〜3カ月もクヨクヨしていられない。お祈りメールをもらってからの立ち直りの早さはピカイチだった。一つ一つを振り返れば、例えばフジテレビの1次面接では「最後に一言ある?」という質問でフジテレビの現状に対する自分の思いを懸命に伝えたおかげで通過できたことなど、夏の失敗が活かされてうまくいった部分がかなりあったからだ。また「自分の本命はやっぱり広告だ」という思いが心の隅にあったのも大きかったのかもしれない。当時「自分が輝く場所はここ(テレビ)じゃないのかも」と就活手帳にメモをしたのを覚えている。就活ではそうした都合の良い思い込みも適度に必要だ。それでも一回一回の面接において何か得るものを…と奮闘し、3月6日のフジテレビ2次面接をもって私のテレビ局就活は終了した。ここで貰った宝物がまたどこかで活きると信じて、広告業界の選考に挑んだ。

遂に始まった怒涛の広告ラッシュ

 多くの広告会社のES締切は4月以降だったため、3月はあらゆる広告会社の説明会に参加することにした。各会社の強みや課題、雰囲気の違いなどを比較しまとめたオリジナルシートにはその後非常に助けられた。またこの時期に参加した「マス読面接道場」では、同じ広告志望の方々の面接を間近で聞くことで「面接官はこう思っていたのか!」という発見を得ることができ、自分の面接スタイルの修正に役立った。  面接1発目は4月29日、大本命の電通。本番までにあらゆる質問を想定し書き連ねた数十枚のレポート用紙。OBからも「ここまでやっている人は本当に見たことがない」と太鼓判を押されたおかげで、自信を持って挑めた。「他の会社とウチ、どう違う? 博報堂は? ADKは?」と質問攻めだったが、「よくぞ聞いてくださいました」とばかりにスラスラと言葉が出てくる。確かな手ごたえを感じながら通過。  続く電通西日本の1次面接では「面接官にあだ名をつけて」と言われ、女性社員の風貌から「前世は敏腕女子アナ」というあだ名をつけると、なんとその方が放送局出身というミラクルが起こったおかげで大盛り上がりし通過。5月13日は汐留にて電通2次(不通過)と電通九州1次(通過)。電通は、年配社員の方に所属サークルについての説明が上手くできず、それに関する質問ばかりに時間が費やされてしまい、瞬時に落ちたと分かった。  1年前の私は、「こんなに行きたい電通の本採用に落ちてしまったら、私はどうなってしまうのだろう」と思っていた。しかし、確かに一番行きたかったのは電通だが、思ったほどショックではなかった。3月に様々な広告会社の説明会に足を運んだことによって、電通以外の代理店にも各々にしかない魅力を見いだせたからだと思う。広告業界の就活においては「この会社に絶対行きたい!」という気持ちももちろん大事にすべきだが、「この会社もあの会社も魅力的!」と思えることも同じくらい必要だ。「電通しか行きたくない!」という自分のまま就活していたら…と考えると本当に恐ろしい。
 すっかり気持ちを切り替えた5月14日、東急エージェンシー1次面接。このあたりから、それまで多少なりとも震えていた手が一切震えなくなった。「緊張してる?」の問いに対して首をかしげたら「大物だな!」と爆笑された。きっとたいていの受験者はこういうとき「はい、緊張しています」と言うのだろう。そう答えたほうが好印象だと書いてある就活本を見たことがあったが、この時の手ごたえを信じ、これ以降他の面接でも緊張しているかを問われたら「全くしておりません!」と笑顔で答えるようにした。
 この時点で他社を含め1次面接をすべて通過し、5月下旬になると2次面接ラッシュになった。27日に福岡の赤坂で電通九州2次面接、28日に東京の赤坂で東急エージェンシー2次面接という「赤坂ハシゴ」はハードだったがどちらも通過。翌日は関西に戻り電通西日本2次(グループディスカッションと面接、通過)。グループディスカッションでは秋インターンで得た「ホワイトボード係が向いている」という気づきを生かし、持ち味を存分に発揮することができた。
 この頃から、選考での印象や事業内容を踏まえてこの3社のどこかに行きたいと思うようになった。「広告業界に意地でもしがみつきたい」と3月に手当たり次第エントリーしていた小さめの広告会社やPR会社はここで辞退することにした。たとえそれらの会社の面接に行っても本心から志望動機を話すことはできないと思ったからだ。
 6月3日、東急エージェンシー3次面接。何を話してもひたすら「他には?」と聞かれたり「大学の成績悪いけどどうしたの?」と聞かれたりと少々たじろいでしまう場面が多かったが、そういう時こそ笑顔で正直に話した。通過連絡の電話では思わず「はぁ〜よかったぁ!」という心の声が漏れ、人事の方に笑われた。6月9日電通西日本最終面接。ズラッと並んだおじさんたちももう見慣れたものだ。いつものように「全く緊張しておりません!」でひと笑い起こし楽しい幕開け。何を聞かれてももう怖くなかった。「これで落ちたらもう何が悪いのか分からない」。そうとまで思えた集大成に近い面接だったと思う。13日、東急エージェンシーの最終面接を2時間後に控えリラックスにと入ったカラオケボックスの中で電通西日本から内々定の連絡をいただいた。自分が広告業界に…。実感はすぐにはわかなかったが、とにかく胸がいっぱいだった。その後の東急エージェンシーの最終面接も、人事の方々に笑顔で背中を押され悔いなく夢を話すことが出来た。翌日、電通九州の選考から帰る新幹線の中で内々定の電話をいただいた。本気で行きたかった2社に内定をいただき、幸せをかみしめながら就職活動を終えた。

夢を声に出し行動すれば運と縁はついてくる

 私の一番の勝因。それは「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けたことだったのではないかと思う。親、友人、先輩、ゼミの教授…私の「本気の声」を聞いた周りの方々が、就職活動中に様々なかたちで手を差し伸べてくれた。もう一つはその声を実際の行動に移すこと。東急エージェンシーの選考中、昔から毎年挑戦していた広告コンペの審査員が面接官で大盛り上がりしたことがあった。ちょっとしたことかもしれないが、それが内定に結びついていることは間違いない。その時以外にも「あの経験があったから今日うまくいったのか」と思う場面は本当にたくさんあった(就活手帳のメモもそうだ)。「運と縁」は時にどうにもならないものだけれど、一方で時に自分でつかむことができるものだと強く感じている。読者の方がこれを読んでいる今からでもできることはたくさんあると思う。あなたの夢を応援しています。


試験を受けていて「ここで働きたい」という気持ちが…

Tさん/キー局、出版社内定:
文章を読んでほっとする。映像を見て涙する。人の無事を願ってニュースに聞き入る。そうやって自分の感情を揺さぶられて生きてきた。

やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定:
小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。


「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/放送局内定:
中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、

ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定:
中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。


「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定:
記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。

50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定:
2勝50敗。私の就活の戦績だ。
文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。