やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定


小学生の時から小説の編集者に憧れた

 小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。ただ、出版社の就活は極めて狭き門である。そこで、日々世の中に何かを発信できる「マスコミ」志望と大きく捉えて、大学2年生から就活を始めた。
「就活って、厳しいかも」と思い始めたのは、大学3年の秋に民放のインターンシップに参加した時だ。社員の方からお話を聞いたり、昼食をご一緒したりと途中までは和やかだった。しかし、午後のグループディスカッションで空気は一変する。人事の方数名を前に、6人1組で夕方の情報番組の案を出し合うのだが、文字通り蹴落とし合いだった。周りが我先にとしゃべり、全く発言できない。その日の様子から選抜された数名が次のインターンに進めるのだが、自分は選ばれなかった。

挫折感とともに迎えた1月の民放試験

 漠然と「マスコミは自分には向いていない」という挫折感と共に迎えた1月の民放本採用。TBS1次は、就職活動で最初に受けた面接だった。一人当たり所要時間10分、と言い渡されて吐き気がするほど緊張したが、「どんなところをこの会社で生かせるか」という問いに対して自分の海外経験をアピールでき、無事通過した。面接官の方が自分の話を真摯に聞いてくださっている印象を受け、ますます志望する気持ちが強まった。
 続いての日本テレビでの1次面接では、なぜか中学生の時に俳句で賞を取ったことを面白がってもらえた。自分ではアピールポイントではないと思っていたが、後に受験した新聞社でも、出版社でも、この特技は会話の良いきっかけとなってくれた。この時、何が相手の関心に引っかかるかわからない分、意識して様々な自分の側面を見せるようにすることの大切さを知った。
 就職活動中、自分の前に立ちはだかったのは、極度の緊張しいな性格だった。どんなにその企業や仕事について調べても、何度面接を経験しても、緊張すると話がまとまらなくなり、逆に思うことの半分も言えない時もあった。志望度の高かったTBS2次面接では、NHKと民放の違いについて聞かれ、自分でももっとあっただろうという答えを返す、惨憺たる有様だった。
 TBSに落ち、傷心のまま2月の新聞社インターンラッシュに突入した。全国紙2つと通信社1社のインターンに参加し、それぞれの会社の気風を肌で感じることができた。その3社では最終的に、記者のやりがいだけでなく、遺族取材などの厳しさも含めて率直にお話しいただいた全国紙1社に強い関心を持つようになった。
 ただ、現役の記者の方や記者志望の学生と話すことは楽しい一方、「やはり自分のやりたいこととは違う」という思いも持つようになった。記者は日々のニュースを追いかける。しかし自分にとってより興味があるのは、そうした現実での出来事よりも、小説や映画など、エンターテイメントだったからだ。
 新聞社インターンの途中にあった日本テレビ5次試験では、6人1組で番組を制作することになった。ここで、再び昨年秋のインターンの悪夢がよみがえった。話し合いの途中で、人事の方が「君たちはなごやかに話し合っているが、これは選考だ。互いを蹴落とし合え」とおっしゃったのだ。甘い考えかもしれないが、この時抱いたのは「それは自分がしたいことではない」という反発だ。班のみんながより活躍できる役職を奪い合う様子を見つめながら、先輩がおっしゃっていた「会社とは相性だ」という言葉を反芻していた。より面白いコンテンツを作るためには、人よりも前に出ていくという姿勢も一つのやり方だろう。しかしその考え方は、自分とは明確に違うと感じた瞬間だった。

本格化した出版社の試験

 4月に入り、マスコミの面接は本格化した。ここで、ある悩みを抱えることになる。それは「行きたい会社ほど、選考がうまくいかない」という問題だ。例えば、第二志望だった4月上旬の新聞社最終面接では、面接官の方が自分にとって話しやすい内容ばかり質問してくださり、内定をいただくことが出来た。しかし、映画作りや海外配給に関わりたいと強く志望した松竹は、1次面接で落ちた。元々配給作品が好きで、海外への作品輸出に力を入れている会社でもあると知っていただけに、かなりショックだった。思い返せば、面接中も相手に自分の話が届いている手応えはなかった。挙句の果てに既に発言したことを忘れられ、もう一度同じ質問を振られる始末だった。
 エンタメ業界に苦戦する中、5月、いよいよ出版社の面接がスタートした。文藝春秋1次試験では、出版社初の面接ということもあり再び緊張してしまった。最近登場した小説家で好きな人を聞かれて思わず「小川洋子さん」と答えるなど、自分でも突っ込みどころは多かった。ただ、新聞社の対策をしていたこともあり、留学先の税率を踏まえて日本の消費税についてどう思うかなど、時事的な質問にも答えられたのが幸いし、通過した。その会社の業態を研究して、文芸担当・雑誌記者・ライツ事業など、幅広く活躍できる素養を見せることが大切なのだと学んだ。
 また、第1志望の講談社1次でも、面接官の方がにこやかに話を聞いてくださって、自分がある作品をなぜ好きなのか、どのように海外に売り込みたいと思っているのかを、会話の中で伝えられた。映画「裏窓」を私が好きだと知ると「いい趣味だね」と言ってくださったりもした。このあたりになってようやく、相手と会話を楽しむ、ということが出来るようになったと思う。
 逆に、集英社の1次では、あまり相手と話が盛り上がったという印象はなかったが、海外経験や出版社にかける気持ちを伝えたのが幸いしたのか、筆記試験の案内が来た。
 結果的に、文藝春秋・集英社・講談社は筆記試験も突破できた。文藝春秋の筆記試験では、事前に『文藝春秋オピニオン 2017年の論点100』に目を通していたが、人物あて100題は半分もできなかった。また講談社はSPIが時間的に厳しかった。いずれの社も、一般常識の結果はともかくとして、作文で相手を楽しませるよう意識したことが幸いしたようである。ただ、本当に苦しいのは、ここからだった。

号泣して終えた文藝春秋3次面接

 6月に入って迎えた文藝春秋の3次面接、部長クラスとの面接は大失敗した。元々文芸志望で、週刊誌は就活の年まで全く読んだことがなかった。そのため、週刊誌記者として取材したいことを聞かれて、とっさに全国紙向けの、俗っぽさのない題材を提案してしまった。明らかに相手の顔が曇ったのを見て動揺してしまい、最後は号泣して面接を終えた。
 さらに講談社の2次面接でも、相手と話がうまく盛り上がらないという思いを抱えたまま、何が悪いのかもわからず落ちた。第1志望で、昔から自分にとって大切な作品をたくさん出してきた出版社から欲しいと思ってもらえなかったことは、かなりのショックだった。
 出版社で最も進んだのは、集英社だった。2次試験は集団面接で、いきなり今日のファッションのポイントを聞かれて戸惑ったが、文芸作品だけでなく、海外への作品輸出にも自分の語学が生かせること、漫画の宣伝方法についてOBからお話を伺ったことなどをアピールし、次に進んだ。3次選考では、ESで提出した企画について甘い部分を指摘されたほか、やや圧迫気味に「編集ではなく営業になっても頑張れるか」と聞かれた。しかし、落ち着いて、既刊の作品に親しんでいることや、映像化したほうがいい理由を論理的に説明することを意識し、後日4次面接の連絡がきた。
 ただ、この時点で自分の中に迷いが生じていた。それは「自分は出版よりも放送の方が向いているかもしれない」という思いである。実は出版社と同時期の6月、テレビ局の面接もスタートしていた。これまで、出版社の面接に臨む時はいつも、あらゆる質疑応答を想定し、万全の態勢を整えてきた。にもかかわらず、毎回非常に緊張したし、苦しいなと思う質問も多かった。
 一方、テレビ局の面接では、いつもそこまで対策をしているわけではなかった。しかし何故か、答えやすい質問が多く、会話が弾んだ。時々鋭い質問が来ても、その場で考えて、自分なりの答えを出すことが出来ていたのである。

集英社面接で初歩的なミス

 その気持ちを抱えたまま、迎えた集英社4次面接。実質の最終面接であるという緊張感は相当のもので、なぜその作家が好きなのか、本をもっと売るにはどうしたらよいのかという基本的な問いにも、きちんと答えることが出来なかった。特にまずかったのは、第3希望分野として営業部を志望していたのだが、海外営業のことばかり考えていて国内の今年の夏のキャンペーンについて詳しく調べていなかったことだ。極めて初歩的なミスだが、いつもキャンペーンに関わらず本を買うので、普段はあまり本を読まない人にどう売るかの視点が欠けていたことが災いしていた。肝心なところでうまくいかない自分自身を呪ったが、それも実力だと思うしかなかった。
 最終的に、全国紙、テレビ局、独立行政法人から1社ずつ内定をいただき、テレビ局を就職先に選択した。理由としては、選考を通じて感じた「相性」、そして自分のやりたいことは映像の世界でも実現できるのではないかという思いである。友人や先生に相談すると「テレビなら、小説を原作としたドラマもできるし、日本文化を海外に発信することもできる」と口をそろえて言われたことが決め手になった。
 就職活動を通して、残念ながら長年の夢だった出版社に就職することはかなわなかったが、また別の、個性を生かせる場所を見つけられたように思う。自分の場合は、やりたいことと、適性は必ずしも一致しなかった。でも、いろいろな企業の方にお会いしたほか、各社の受験者のカラーの違いを見ることは楽しかったし、自分の考えを言葉にする難しさも改めて学んだ。来年の就活生のみなさんも、それぞれが自分らしく働ける場所に巡り合えることを祈っている。


試験を受けていて「ここで働きたい」という気持ちが…

Tさん/キー局、出版社内定:
文章を読んでほっとする。映像を見て涙する。人の無事を願ってニュースに聞き入る。そうやって自分の感情を揺さぶられて生きてきた。

やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定:
小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。


「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/放送局内定:
中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、

ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定:
中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。


「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定:
記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。

50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定:
2勝50敗。私の就活の戦績だ。
文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。