自信のなさも含めて武器になる

Kさん/出版社内定


好きな雑誌を作りたいと出版を志望

 「○○さんって編集者っぽいですよね」
 高2の頃、後輩に言われてからずっと出版社・編集者に憧れていた。大学3年の秋、志望は、自分が好きな雑誌をつくりたい、女性の不安や期待に寄り添う情報を編集したいと主に女性誌や実用書にしようと決意した。しかし、私よりすごい人たちはたくさんいる。この自信のなさは、就活終盤まで引きずることとなる。
 10月、大学のOBを訪問したのを皮切りに、社員訪問を始めた。3月の解禁日を迎えれば、マスコミ以外の就活も入ってくる。10〜12月に2週に1度はOB訪問をしたのが良かった。「自分の行きたい会社の社員がOB名簿を探しても見当たらない」と嘆きも聞くが、諦めるのはもったいない。私はあるときは読者対象の出版社のイベントに行き、そこで名刺をもらった編集者の方に訪問させていただいた。あるときは先輩の別大学の先輩を頼った。「雑誌の○○に興味があるんです」と打ち明けると「その編集部に知り合いいるよ、紹介しようか?」と次に繋いでいただけた。本当にありがたかった。
 また、12月〜3月の間に「マス読」やマスコミ就活支援団体「T.O.P&M」のイベントに参加した。業界最前線で働く人たちの話や、実際に就活を経験してきた内定者の作文・ES講座などかなり有益だった。ここで出会った人たちとは後々LINEグループで筆記試験や面接の情報を共有したり、時事問題を出し合ったり、同じ志望の仲間同士を紹介しあえたりしたのも大きかった。
 2月には、NHKのインターンシップに参加。ディレクターの現場を見せてもらったことで、情報番組のディレクターも楽しそうだなと感じるようになった。その前後で、テレビ朝日の試験が始まった。一次面接では大勢の学生が、5分程度でどんどんさばかれていった。わんこそばみたい、と感じた。筆記試験はパスするも、二次選考のグループディスカッションで不合格。早めに始まった広告の説明会など受けているうちに、3月の解禁日を迎えた。
 3月は、テレビの試験が一通り終わり、出版のES締切は来月……という期間だったので他業界の説明会に集中した。大学限定の合同説明会に顔を出し、業界研究。鉄道やWEBサービス、広告などを中心に見た。しかし、説明会を詰めすぎて朝起きられず無断欠席してしまうことも多々あった。こんなに必死になって説明会行かなくてよかったなと今になって感じる。周りの就活生の動きに引っ張られてしまっていた。
 また、何かしないとと不安になり、マスコミ就活の個別指導「キャリアゼミ」に通い始めた。少し値が張ったが、OBとは違い契約上ESを必ず見てくれる相手がいるのはありがたかった。ESに書けばウケるかもと女子らしくない釣り堀やボクシング観戦に行っていたのもこの時期だ。

4月5月はESと筆記試験ラッシュだった

 4月はESラッシュだった。11日にテレビ東京と新潮社、12日にTOKYOFMと小学館と手書きのES締切が重なっていて、ここが一番しんどかった。力尽きてしまい、14日締切の文藝春秋を泣く泣く諦めた。ESは、個別指導の先生や友人、OBに見せた。大手出版社は特にボリュームがあるので、どれか1つを完璧に仕上げればだいたい使い回せるはずだ。ただギリギリ癖がたたり、最終的には徹夜で仕上げ、朝一で集配郵便局に駆け込むことが多かった。
 5月はES後半戦と、筆記試験ラッシュ。ESはアドバイスのおかげで丁寧に書いたものは落ちることがなかった。ここで、私がした筆記試験対策について述べておきたい。
 筆記試験には、主に4つある。?国数英などのSPI、?作文、?時事・一般教養問題、?その会社特有の知識問題。?についてはナツメ社のSPI対策本で数学を重点的に対策した。漢字は『一般教養の天才』などで対策していた。?は、3月頃に友人たちとLINEグループを作り、毎週1本作文を書くようにした。4月のESラッシュが近づくとみんな書く余裕がなくなってくるので、2〜3月に対策しておくといいと思う。作文対策は『マスコミ就職への道』を勧められたので参照した。三題噺はマンガの短編集からインスピレーションを得た。何本か予定稿を作っておくと便利だ。??は試験3日前に詰め込むことが多かった。『新聞ダイジェスト』の巻末問題、『朝日新聞キーワード』が役に立った。友人同士スポーツ・マンガ・テレビ・政治・ファッションなどそれぞれの得意分野を補完しあい、対策ノートをつくった。
 大事なのが復習。試験が終わるとすぐに友人と出てきた問題を書き出した。この繰り返しをしていくと時事問題で問われるポイントが掴めてきた。
 同時に面接も本格化してきた。TOKYOFMの二次選考、初めての個人面接はいきなり局長など現場のトップ6人程度との面接だった。人事の方に「面接官が遠いので声を張ってください」と言われ部屋に入ると、絨毯も椅子もふかふかで部屋には緊張感があった。早いうちに重厚感のある面接を受けられたのはよかったと思う。
 周りに見せたESの感触も悪くはなかったし、話し好きも功を奏したのか、マスコミ各社の一次面接は通過。ただ、各社二次面接の段階でだいぶ人数が絞られると聞いて、「私よりすごい人たちは沢山いる、受かるはずがない」と根拠のない自信のなさが膨れ上がっていく。
 そして迎えた小学館二次面接。三人の面接官の視線に萎縮し、「まず自己PRをお願いします」と言われ面食らった。実は就活が始まってからというもの、「自己PR」という言葉が大嫌いだった。自分に自信がないため、自ら長所をPRすることが気恥ずかしかったし、何を言っても陳腐になってしまう気がしていた。幸い今までの面接では自己PRを聞かれることがあまりなく、次の話題への繋ぎ程度に考えていたのでさりげなく学生時代頑張ったことへとスライドさせることでごまかしていたのである。いつものスライド作戦に出たところ、緊張し動揺が目に見えたこともあり「学生時代の話じゃなくて、自己PRをお願いします」と指摘されてしまった。その後もつまらない受け答えばかりしてしまい自滅。当然不合格だった。

一時は就活疲れでスランプに

 この頃になると就活疲れが出てきて、面接の朝に「行きたくないな。どうせ内定なんて無理だし……」とネガティブになりキャンセルしてしまうこともあった。大事な出版社の面接なのに。その時点でご縁などあったものではないので後悔はしていないが、無理に他業界の選考を詰めすぎていたなと反省している。
 マスコミ内定の自信がないまま迎えた面接解禁。他業界含めESを出した会社が多かった分、6月上旬にはメーカーなど複数内定をいただけた。内定がある分、余裕ができるかと思いきや、他業界志望の友人が次々と超有名企業の内定を得て就活をやめていく。自分は果たして希望通りの就職が出来るのかと不安になった。ここで諦めたらどんなに楽だろうとか、マスコミの激務に自分は果たして耐えられるのだろうか云々。そんな時、マスコミを諦め他業界へ進んだOGから「辛いのはこの数カ月だけだから。しんどいと思うけどやり切った方が絶対いい」と励まされ、ずしんと心に響いた。
 6月中旬。書類の段階でかなり絞られると噂のマガジンハウスの書類が通っていてモチベーションが復活。就活の後半戦が始まった。他の出版社の面接も進みながら7月を迎えた。残り数社になってきてからは雑誌研究により力を入れた。国会図書館でバックナンバーを数カ月分読み、良かった記事はどこがいいか、イマイチだったものはどう改善すべきかノートにメモした。各社がWEB・電子でどんな取り組みをしているかも確認しておいた。dマガジンも面接でよく話題に出たので、登録しておいて損はないと思う。
 とはいえ、根本的にずっとあったのが、「ファッションに詳しくない私が女性誌…」という自信のなさだった。女性誌志望=華々しくオシャレに敏感な女性というイメージは拭えなかった。その一方で、コンプレックスがある人間だからこそ自信のない女子に届けることはできないかと感じていた。
 某出版社の私服面接で「オシャレに自信はありますか?」と聞かれた。相手は恐らく女性誌編集者。怖い。笑われるかも。「自信はないです。」口をついて出たのは正直な気持ちだった。「でも、オシャレするのは好きです。」後日、通過の連絡が来て、手ごたえを感じた。
 この方向性で勝負しようと決心し、自信のない女子に向けてどんな企画を、どんな人を起用して、どんな誌面で打ち出すべきかを伝えられるよう対策を重ねた。最終面接では、厳しい意見もいただいたが、そこだけは譲らなかった。当日夜、内定の連絡が来て、肩の力が一気に抜けた。

面接で心がけた3つのこと

 面接で心がけていたのは、主に3つ。1つは、「ここだけの会話」をすること。集団面接だと、テンプレ通りすらすらと話し面接官を置いてきぼりにしている人を何度か見かけた。だから、面接で話すことは内容だけ決めて文言までは決めなかった。
 2つ目は、余裕がありそうに見せること。自信はなかったけれど、話す際は適度に視線を動かして各面接官を見据えハキハキと話した。「自分の嫌いなところは?」と聞かれた時に「自信がないところ」と答えたら「そんな風に見えないよ(笑)」と言われたので作戦はうまくいったんだと思う。バイト先などでも40代以上と話し面接官世代に慣れるよう心掛けていた。
 3つ目は、ホームランではなくヒットを出すこと。一つ一つの質問に丁寧に答えて最後に点を入れればいい、という先輩からのアドバイスは面接前に常に思い出していた。それだけで心がふっと楽になった。
 自信のなさも含めて、武器になる。諦めなくてよかった。そう感じた就活だった。
 出版という狭き門に挑む方にはぜひ悔いのないよう自分のすべてを出し切ってもらいたいです。不安になる日もあるかと思うけれど、この体験記が誰かの一助となれば幸いです。そして、就職活動にてお世話になったすべての方々に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。