多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定


 浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。同じような悩みを持つ人もいると思う。以前、ある雑誌の編集長だった伝説的な編集者とお会いする機会があったとき、「出版界にはまだ学歴主義もある」と言われた。それでも、大学の先輩には出版業界で活躍される方も沢山おり、私自身も出版社に内定を頂くことができた。この本を読んで、こんな人でも編集者になれるんだ、ということを知って頂き、出版業界を目指して頂けたら幸いです。

 根拠のない自信と思い込みで1年目のマスコミ受験

 大学3年の冬、具体的な将来像が思い浮かばないまま、学内セミナーに何となく参加し始めていた頃、出版の仕事に就くことになるとは夢想だにしなかった。

 強い動機があったわけでもない。本や雑誌が好きだから、出版社に入れたらいいな、と漠然と考えていた。講義で提出する劇評レポートを文学部の先生に毎回褒められていたことを真に受けて、自分は言葉を扱う職業に向いている、という勘違いも甚だしい思い込みもあったと思う。とにかく根拠の無い自信、いつか何とかなる、という気持ちがあった。1年目の就活は、あらゆるマスコミの企業を受験した。

 意外にもESで落ちることはほとんどなく、筆記試験もよく通った。中央公論新社の試験では29人にまで絞られ、新潮社は100人程度まで、マガジンハウスは、『マス読』の情報からみて1300人の応募者から70人程度まで絞られたので、必ずしも負け戦ではないと信じてこれた。

 何度も足を運んだ「マス読ライブ」では第一線の編集者に直接お会いしお話を伺うことができる。ここで出会った某誌編集長と新潮社の面接で再会したこともある。実は、はじめは、文芸編集者になりたいと思っていた。新潮社の試験は、今でこそ就職サイトでエントリー受付をしているが、1年目当時は入社志望書を郵送で取り寄せ、受験票も葉書で届くスタイルだった。当時の総務部長が、面接前に、太宰治の担当編集者だった先輩社員との思い出話をして下さったと記憶しているが、連綿と続く伝統のある新潮社は、憧れの出版社だった。就活を続ける中で、最終的には、文学を専門に研究してきた人には敵わないだろうと結論づけ、自分の専門と繋がるジャーナリズム誌志望を核とすることにしたが、その選択が功を奏したと思っている。

 某出版社の二次面接で、大学の学内報に掲載されていた、その出版社に勤められるOBの編集者の名前を出した時、鋭いまなざしの面接官に、「その編集者に会ったの?」と問われた。お会いしていない旨を告げると、「会わなきゃダメだ、編集部に電話してでも」と厳しい指摘を受けた。結果は不採用だった。どこか引っかかるのでは?という甘い考えだったが、1年目は、体育会系の部活動との両立も難しく、結局どこへも決まらないまま、あっという間に2年目を迎えてしまった。

 2年目はやはり出版社を中心にマスコミだけを受験した。印象に残った体験を紹介したい。フジテレビの一次面接を受験したときのエピソード。私は報道志望で受験し、なんとか面接に進むことができた。同じく報道志望の、一流大学の学生2人とともに集団面接に臨んだ。彼らの口からは、私にとり想像を絶する程濃密な体験が幾つも語られた。叶うわけない。同じ土俵に立てるわけがない。そう感じた。面接後に昼食を共にしながら、夢を語り合い、お台場の見通しの良い場所で別れた。一期一会の出会いに嬉しさを感じながらも、競争相手は手強い、と思った。

 朝日新聞出版の第1期新卒募集では、筆記試験と二回の面接、適性検査を経て、最終面接に進むことが出来た。最終は社長を中心に約7人の役員から40分近く質問攻めになる。とても温かい方ばかりで、出版ジャーナリズムへの私の思いに対する社長の言葉も印象に残っている。入社後は営業担当になるとのことだったが、出版業界への思いを自分自身の言葉で伝えた。

 後日不採用通知を受けた。普通なら失意のドン底に落ちて立ち直れなくなるところだろうが、後に、逆に私は、これはいけるのではないか、という気持ちの方が強くなっていったようだ。賭けてみよう、と思った。大学卒業後は出入りしていた某雑誌の編集部でアルバイトを始め、就活をしながら出版業界に足を踏み入れることになる。2年目〜3年目は転職サイトにも登録し、新聞の出版求人欄のチェックも欠かさなかった。

出版社の先輩OBに会って話を聞く

 1年目に面接官に「会わなきゃダメだ」と言われた出版社では、再挑戦する前に編集部に電話して、OBの先輩にお会いすることが叶った。驚いたのが、件の面接官が先輩の部署かつ私の志望部署の編集長だったことだ。結果としてその会社には入社が叶わなかったのだが、先輩のアドバイスがあったからこそ、編集者になれたと思っている。あらゆる人に会う職業である編集者志望なのだから、OB訪問はするべきなのだ。また、毎年開催される「東京国際ブックフェア」には是非行ってみて頂きたい。出版の仕事は面白そうだ、と改めて感じられる経験が得られる。

 中途採用にも積極的に応募した。筆記試験を通過し臨んだ筑摩書房の面接では、面接官に「あなたの書いたものを見ていると、古き良き昭和の時代の編集者みたいね」と言われた。その場では褒められた気になっていたが、後日その意味を反芻しながら、「皮肉だろうか?」と自問した。

 岩波書店の面接では、なぜか新聞記者を勧められた。思想哲学系の小さな出版社を受けた時は、筆記試験受験者が私一人だったこともある。社長が迎えてくださり、受けた5時間近い試験を無事通過したが、面接で不採用となった。明らかに合っていない。足りていない。それでも、自分自身と出版社が要求するところとの隔たりを知るためにも、あらゆる会社をとにかく受けてみるべきだと強く思う。どの出版社にも、実績もない若い私を面接してくださり、心から感謝している。

 言葉に対する想いの強さから、毎日新聞社の校閲記者職も受験した。ここでは面接で求められるものは何か、という問いの答えが得られたと思う。「言葉へのこだわり」という究極の動機を、現場の校閲者と共有出来た実感があり、筆記試験から一次・二次面接、校閲実技と作文試験を経て最終面接まで進むことが出来た。役員面接独特の空気にのまれてしまい、結果は不採用となったが、現場の人の仕事への想いと温かさに心を打たれた経験だった。

 そして、同時期に受けていた出版社の編集者募集で内定を頂くことが出来た。明るく迷いなく自分の意志と考えを伝えることで、熱意を認めて頂けたのだと思う。「是非ウチで働いて頂きたく…」と電話を受けた時は、あまりに長い就職活動から実感が湧かなかったが、遂に志望職種に就けるんだ、という喜びは大きく、また、「そこの雑誌買ってるよ!」と友人や後輩に言われた時は、とても嬉しかった。本当に長い就職活動だった。

 某大手総合出版社の面接で、仕事を続けて来られた原動力は?という趣旨の逆質問に、肩を聳やかして「特にない。福利厚生もいいしね」というような回答を受け、残念な気持ちになったことがある。何のために働くのか。お金の為、だけではあまりにも悲しい。心から「編集者になりたい」「どうしても編集者じゃなければ」と願ってやまない人は、中途半端な保身に走らず、継続して出版業界の試験を受けまくるに限ると思う。

 アルバイトなり何かしら業界と接点があれば、新聞広告掲載の中途採用でも案外面接に呼んでもらえたりもする(経験談)。周りが「内定」してゆくなか、受かる保証のないマスコミを受け続けるのはとても不安だと思う。それでも見ていてくれる人は必ずいる。今後の生き方を模索しながらも、人に誇れる個人的な体験を沢山持ってください。

私が実践した具体的な試験対策

 最後に、私が実践してきた具体的な試験対策を紹介したい。

 出版社の入社試験は、筆記と面接がある。筆記試験対策は、一般教養と作文だ。一般教養の出題形式は様々だが、純粋なSPI形式で出題する出版社は私の受けた限りほとんどなかった。私の場合は大学受験期に小論文・国語が得意科目だったので、特別な対策は一切やらなかった。作文に不慣れな人は、実際に試験を経験したマスコミ人か、創出版の作文講座で添削してもらうといいと思う。

 私が必ずやった対策は、試験形式を把握しておくことだった。マガジンハウスでは旬な芸能人の名前の書き取りがある、集英社は三題噺が出題される…等、出題形式を知っている人と知らない人で差が出る。『マス読』は受験した学生だけでなく、各企業の人事部に直接取材をして情報収集しているので、必読だ。

 余裕がある人は『編集必携』(日本エディタースクール出版部)『本の知識』(同)『日本語の正しい表記と用語の辞典』(講談社校閲局)『編集会議』(宣伝会議)などで、編集者の仕事や言葉の扱い方に対するイメージを膨らませると良いと思う。

 面接対策は、国会図書館に行き、受験企業が出している雑誌のバックナンバーをそれぞれ数カ月ないし1年分、競合誌と比較しながら精読するなどし、とくに面接のネタになりそうなものはコピーして持ち帰り、試験直前まで読み返した。『創』の業界研究特集は数年前の号も入手し熟読した。「『ブルータス』より『Pen』の方が良くない?」(マガハ)「『FLASH』と『FRIDAY』の比較を聞かせて!」(光文社)「文藝誌5誌の違いは?」(新潮社)大手各社で必ず問われた競合誌比較の対策も必須だ。

 ここまで読んで下さった方に、面接の秘訣をお教えしよう。

 第一に、面接は対話でしかない、ということだ。集団面接を経験すると、一点を見つめて語り出し「この人は用意してきたことを話しているな」とわかる人がいる。これは一緒に受けている私でさえ、冷めてしまった。内容は別として、面接官は想像以上にフツーの会話を望んでいると感じた。

 第二に、面接官に書類上の自身の印象とのギャップを感じさせることだ。「ESのイメージと違うなぁ(笑)」と、真面目な書類とは裏腹のキャラクターを感じさせられた面接は必ず通った。やりすぎはNGだが、これは意識すると効果があると思う。

「出版は斜陽産業だけど、何故出版?」――幾度となく面接で受けた問いだ。でも出版が斜陽ならテレビは?新聞は?ラジオは?そう問い返したい。

就活は最後は運と縁

 就活は最後は運と縁。「卒業まで」という限られた時間に自分の今後の人生を無理に収めてしまうのではなく、バイトからでも出版業界に入るなどして、少しづつ接点を増やしてゆくことが大切だと思う。そこまで人生を賭けられる人なら、何処へ入ってもやっていけると思う。最終面接に残った企業は、一次面接から振り返ると、どこも私にとって「この人たちと働きたい」と思える会社だった。

 お世話になった全ての方に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。