祖母の祈りに思わず涙
2015年8月下旬。周りの友人たちがSNSで内定の報告をし始めた頃、私は静岡の祖母の家にいた。選考の進んでいたNHK、博報堂に落ち、持ち駒が無くなった私は“息抜き”がしたかった。そこで毎年、楽しみにしている三島祭りに行った。しかし、祭りを楽しむことは出来ない。結局「この先の人生どうしよう」という不安で心が苛まれてしまうのだ。その日は意気消沈して床についた。
その年の4月、祖父が亡くなった。祖母はそれを機に、原因不明の難聴になった。私が早朝に目覚めると、横の部屋から祖母の声が聞こえてきた。「Sの就職活動がうまくいきますように」。祖母は祖父の仏壇に向かって、孫一人一人の幸せを願っていた。毎日の日課なのだろう。「息抜きなんてしている場合じゃない。自分に甘えすぎだ」。情けなくなり、思わず涙が出てしまった。祖母の耳が悪くて良かったと思うぐらい、情けない声を出しながら……。
9月上旬。「どこでもいいから就職してやる!」と秋採用を受けまくった。この時、高校の親友が私の身を案じて、自動車会社に勤めるKさんを紹介してくれた。Kさんは出会った時「オレの厳しさは松竹梅選べるが、どれがいい?」といった。私は「松で」と即答した。すると、「“麦は踏めば踏むほど強くなる”、原爆で死んでしまうゲンのお父さんがゲンに常に言い聞かせていた言葉を今回はSに送ってやろう」と言った。本当に有り難かった。私はここで初めて人にESを見せた。「面白くない」「文と文字には全てに意味がある」「伝えようとしていることに対して如何にムダがないかを突き詰めて考えること」。脳に汗を書きながら、ESを書いていった。
そして、私はKさんのアドバイスもあって大手通信会社の最終面接に辿り着いた。最終面接、最初の質問は「なぜ、就活失敗した?4月から自分を振り返ってみてもらえる?」。私はテレビ業界を目指していたことも含め、正直に答えた。「就職活動を舐めていました」「自己分析は自分のことを言葉で表すのが嫌でしませんでした。なんか、一言で自分を語りたくなくて」「OB訪問を必死にしている同期をみて、自分はああなりたくないな〜と思って」……。この後も志望理由や自己PRを述べ続けた。そして、最後の質問。「最後に君を採用するか、しないか、君の人生を大きく左右する質問をします。“君はテレビ業界、諦められるの??」
「諦められます!」といえば、採用だったかもしれない。しかし、私は「無理だと思います」と答えていた。ただただ不安に苛まれていたのだ。自分の人生をどうしたいかなんて真剣に考えてなかった。そして私は就活浪人を決意した。
君にはテレビの世界に入って欲しい」
「就職浪人したいです」と父に頭を下げにいった。父は「今年は思う存分やりきれよ」と背中を押してくれた。その言葉の重みに、私は突き動かされた。自己分析、企業分析、OB訪問。それぞれに「なぜこれをするのか」という答えを考え、就職活動に向き合った。自己分析は「自分の過去を振り返り、未来を夢みて、今の自分を?最大限?相手に伝えるためにすること」と考えた。私は自分の年表を書き、「なんで、この選択をしたのだろう」「なんで、あの経験は成功したのだろう」と過去の自分に『なんで攻め』をした。すると、自然と“自分の志の原点”が見えてきた。
これはESにも書いた話だが、私は小学4年生の時、激太りした。鬼ごっこでは弄られ役としていつも鬼。しかし、嫌だと思ったことは一度もなく、むしろ「全員を平等に追いかけないと場が盛下がるな」と考え、弄られ役を全うした。これで味をしめ、周りの人に好かれ始めた私は調子に乗った。「私の夢はみんなを明るく照らす太陽のような人間になることです!」。これは小学校の卒業式、全校生徒の前で私が叫んだ言葉だ。中学、高校といろんなことを経験して、大学ではミュージカルに没頭した。なぜ没頭したのか。それは小学生の時と変わらず、“自分の考えたことで人に喜んで頂くこと”が嬉しくて楽しくて仕方がなかったからだ。
なんでテレビ業界に憧れたのか。それは、たくさんの人に喜んで頂けるモノが作れる土壌があるからだ。私はこうして、人生の軸ができ、話に筋が通るようになってきた。そして、11月。大手キー局のインターン選考が始まる。人生の歯車が動き出した。
大手キー局(に限らず、ほとんどの企業)のインターンシップで「入社してほしい!」と思われた学生は、社員から裏ルートでなんとなく囲われる。だからといって、内定をもらえるわけではないのだが、就活スケジュールが変動している現代において、インターンシップの重要性は大きい。私もいくつかのインターンシップに参加した。ほとんどが「番組制作を体験してテレビの面白さを知る」という表向きで、裏向きは「番組制作力と人間力を見ます」といったもの。
こういうのは何度もやっているうちに、“自分が勝てる方法”が見えてくる。例えば第一印象の付け方(服装や自己紹介)次第でグループ内での存在感が変わる(しかし、これに捉われすぎるとウザイ人にもなってしまうので注意)。結局、人生も作ることも、その場・その時を愉しめる人、その愉しさを共有できる人が魅力的なように感じる。私も客観性を大事にしつつ、インターン選考に臨んだ。そこで社員さんに会社に呼んで頂ける機会ができた。「君にはテレビの世界に入って欲しい」。憧れのテレビ局の人に在り難い言葉を頂き、私は有頂天。その企業は、当時私の第一志望会社であったため、私のモチベーションは急上昇した。
テレビ界に入って欲しいがウチにはいらない
年も明け、2016年2月。「君にはテレビの世界に入って欲しい」と言って下さった大手キー局の本選考が始まった。選考が進むと共に、私の志望度も右肩上がり。期待は高まる一方だ。しかし、「あともう一歩で内定!」というところで、バッサリ落とされてしまった。悲しい、というより、無という感覚に近い。心にはポッカリと穴が開いてしまった。
3月。周りの友人たちは卒業旅行に、卒業式と楽しそう。SNSも華やかだ。私はといえば、企業説明会に足を運んでいた。まったく興味のない会社をみて「なんでここは行きたくないのか」を考え、それを裏返して“新たな志望理由”を作る。こんなことをしながら、就活で使う武器を作り、研いでいた。就活浪人を決意する前に決まっていた2つの舞台も終わり、就活に一本化した日常は灰色だった。就活浪人を決めた時の情熱を思い出し、行動に移す。しかし、心の奥底で気持ちが淀んでいる。そんな自分に溜息をする日々が続いた。
3月下旬。ミュージカルサークルの退団式があった。大学4年間の楽しかった思い出を振り返って盛り上がったり、はたまた「もう、さよならか」と悲しさを噛み締めたり、忙しくて久々に充実した一日を過ごした。
会の終わり際、一年生の頃からライバル関係のように歩んできた友人が一通の手紙をくれた。彼はNHKの内定者だった。明け方の帰り道、この手紙を読んだ。そこには、5枚に及ぶ、彼の人生の軌跡が書かれていた。夢に破れた時のこと、大切な友人が亡くなった時のこと、演劇活動が本当に楽しかったこと、「お前のような友達ができて良かった」ということ……。そして「どうなるかわからないけど、4月からテレビ局に入る。先に行って、俺は進む。だから、お前も早く来い。お前が追いつけないぐらい、俺も頑張るから」という言葉。……ポッカリと空いた心の穴も完全に閉じた。そして私はまた、力強く歩みだした。
最終面接での最後の質問
ここから私は全力で走り抜いた。番組製作会社、地方局、大手メーカーの内定をとった。残すは本命のNHK。職種別で採用され、入ったら必ず番組制作に携われる点や朝ドラ・大河ドラマと重厚で歴史あるドラマ作りができる点が最大の魅力だった。
力を出し切り、運よく私は最終面接を迎えた。最終面接、面接官の表情はなんとなく曇っていた。「落ちるかも」と思った。あっという間に時間が過ぎ、最後の質問だ。「最近、心を動かされた瞬間はなんですか?」。NHKのドラマと言おうか、それとも最近観た映画を言おうか迷った。
「えーと…」。どれもしっくりこない。「えーっと…心が動かされた瞬間…」。その時、稲妻が落ちるように、思い出したことがあった。「友人から手紙をもらったことです」。就活浪人をして最も凹んでいた時、ミュージカルに励んだ親友からの手紙に救われた話。「彼はこの春からNHKで働き始めました。私はまた彼と戦いたいんです」と結び、最後の面接が幕を閉じた。面接会場を出るとき、面接官の顔が少し笑っているようにみえた。
数日後、合格通知を頂いた。就活で出会い、力になってくれた人々の顔が嬉しさと共にフラッシュバックした。私はたくさんの出会いに恵まれ、家族や友人に助けられながら“内定”を手にすることができた。「自分がつぶれる前に人を頼る。その分、つぶれそうな人がいたら必ず助ける」というのは、2回目の就職活動の教訓である。就活の仕方は結局のところ、人それぞれだ。自分で考えて、“自分だけの(自分が勝てる)方法”を身に着けた人が最も強い。だから、私が一番主張したい“やるべきこと”とは、この期間に全力で・苦しんで、“自分と向き合う!”ということだ。一年目、私はこれをしなかった。就活中、時に他人と比較しちゃう自分がいるかもしれない。そんな時こそ、歩みたい道、自分の志を見つめなおしてほしい。何かに躓いて立ち直れなくなったら、私が力になる。しかし、?考えること?からは絶対に逃げないでほしい。最後に“なんでも愉しめる力”は大事な力だと思う。それこそ、人生に役立つ武器なので、就活を愉しんでみて欲しい。