理系、既卒でマスコミをめざす

M君/全国紙、キー局内定


1年目は出版社だけ受けた

  大学4年生のとき、私は文芸志望で出版社だけを受けた。第一志望群を新潮社、講談社として、集英社、小学館、文藝春秋、河出書房新社、早川書房など、文芸ができるところには手当たり次第エントリーした。ドストエフスキーや山本周五郎、中村文則、白石一文、ジャンルを問わず(理系にしては)それなりに読書はしてきたので、どこか出版社には通るだろうと、今考えると大変な勘違いをしていたのだった。
 さらに悪いことに、4年生になる直前まで大学院進学を考えていたので(大学院進学は経済的な事情で困難になる)、就活を始めたのが3月と遅かった。当然インターンや説明会には参加できていない。その時期からでも人づてにOB訪問するなどやりようはあったのだろうが、私は時間があれば研究室に行った。当時の私は自信過剰で準備嫌いの愚か者であった。
 それにも関わらず、出版社のESを書くうちに私は自分がすごく就活の準備をしている気になった。出版社毎にA4で4枚の分量、仕上げるのに8〜12時間。それだけ時間をかけると、ある程度頑張ったという気がするのだ。
 実際、そのESは全通。筆記試験も小学館のクリエイティブ問題にコテンパンにされたくらいで(40分で川柳を20個考えなければいけないところ、私は10個しか思いつかなかった)、他の試験はさしたる苦労なく通過した。
 すんなり選考が進んで天狗になっていた中、迎えた早川書房の集団面接。私以外の3人は、「国文学を専攻していて、御社にてミステリーを担当したいです。特にドラマ化、アニメ化などのコンテンツビジネスに興味があります」等々しっかりした志望理由を明朗快活に語っていたが、私は「わ、私は、り、理系というコミュニティーの中にいたので、周りに文芸作品を読む人があまりいませんでした。な、なので、理系の専門書コーナーに御社のSF作品を置くなどして、え、SFの間口を広げたいです」と、拙いことをカミカミで言う始末だった。落ちた、と明確に感じた。そして、これではどこも受からないのではないかと危機感を持ち、それ以降は志望理由とやりたいことをハキハキと言えるよう面接練習をした。
 その後、文藝春秋、新潮社、講談社と志望度の高い出版社の一次面接が続いた。早川の失敗を活かし、志望理由とやりたいことは明快に話すように気を付けたところ、全て二次面接に進めた。
 ところが、二次面接で全敗する。敗因ははっきりしている。「入社したら週刊記者スタートになると思うけど、取材したい人を挙げて」「私たちが知らないような若手作家に依頼したいことを教えて」といった入社後の具体的な業務に関する質問に「今はよく分からないですが、入社してから頑張ります」と答えるしかなかったからだ。出版社を目指している者にあるまじきことながら、私はテレビや雑誌で見る人を仕事の対象として見たことがなかった。メディアにほとんど出てこない若手に関しては尚更。その当時は全く知らなかったが、この質問はマスコミでは一般的な質問である。
 二次面接全敗の後、河出書房新社の面接も受けるが、「入社したとして、君はうちでどんな力になれると思うか」の質問に押し黙るという愚行をやらかす。かくして、就活一年目の出版社への道は絶たれた。
 それからも、私はダラッと就活を続けた。印刷会社、流通企業……。そして9月ごろにある流通企業から内々定をもらう。だが、私は研究室にいると、気が付けばパソコンを立ち上げ、募集の終わった出版社の採用サイトを見ていた。そして、ため息。就活に悔いが残っていることは明らかだった。親にそのことを電話で相談すると、「絶対に内定先に就職しなさい。来年の景気がどうなるか分からないんだから」と就職浪人の案は一蹴される。しかし……、散々悩んだ挙句、先に内定先に辞退の電話を入れ、親には事後承諾してもらった。来年の学費、家賃を払う余裕はないと宣告され、私はフリーターで2017年度の就活に臨むことになった。

2年目は新聞社などにもエントリー

 4年生の10月、私は就活生に戻った。夏のインターンシップには参加していない。またしても出遅れた感があった。そこで、効率的に準備をするため、私はまずトゥードゥーリストを作った。『群像』『新潮』『文藝』5年分、『週刊新潮』『週刊文春』1年分、SF50冊…… 結局、卒業研究とアルバイトに多くの時間を割かれ、その多くは遂行できずに翌年の面接に臨むことになるのだが、トゥードゥーリストをこなしているうちに、SF作品やエンタメ作品より純文学やジャーナリズムを仕事にしたいと思うようになった。リストの実行は就活の軸を決める上で役に立った。
 それと並行してマスコミ業界に勤める人から話を聞いた。業界に勤めるOBが周囲にいなかったので、説明会だけでなくボランティアの勉強会にも行くようにした。加えて、集まりの後に開かれる飲み会にも出来る限り参加した。ある飲み会で、「本気でそこを目指しているなら、トイレについて行ってでも名刺をもらわなきゃダメだ!」と、フリーで編集者をしている人に叱られたことを記憶している。以来、ずうずうしいお願いであっても必要とあれば頼みこんだ。
 そうして迎えた2年目の採用試験。出版社のほかに通信社・新聞社にもエントリーした。前年の失敗を活かし、ESには、「窪美澄氏に偽善をテーマにした連作短編を依頼したい」のように自分のしたいことを出来るだけ具体的に書いた。講談社の一次面接で「これはやりたいことがよく分かる良い企画書だと思う」と面接官二人が頷くほどだった。ESは前年同様、全通。筆記試験も前年と同じく小学館以外は通った(今年は短歌にやられた)。
迎えた面接。スタートは5月20日の文藝春秋。「なんで就職浪人を選んだのか」「普段よく読む作家さんの名前を数人あげて」など予想していた質問をテンポよく答え、通過のメールをもらう。25日の新潮社も同様だった。
 31日の文藝春秋二次面接も、途中までは良いテンポで進む。しかし、本屋大賞を受賞した宮下奈都氏の名前を「なお」と間違えたまま連呼し(正解は「なつ」)、面接官の顔が芳しくなくなる。ここで敗退する。
 悔やんでいる間もなく、6月に入るとすぐに新聞社・通信社とNHKの面接があった。出版社の面接は1カ月近く続く長丁場だが、新聞社他は1週間で3回の面接を行うというスピーディーなもの。面接と面接の間に対策することは困難である。私は出版社の対策に時間をかけていたため、新聞・ニュースを見る以外に対策しておらず正直自信はなかった。自信がないので、見栄を張らずにありのままを答えるしかない。だが、逆にそれが良かったのか、共同通信、日経新聞で最終まで残る。
一方、同じく最終まで残るNHKは、面接がかなり厳しいものだった。一次面接で「遺族取材についてどう思うか」というテーマで答えに窮するまで詰問されたり、二・五次面接で何を答えても首を振られたり。30分の面接時間の半分以上を残して逆質問タイムに入ったこともあった(二次面接)。後日聞いた人事の話によると、「話を聴く姿を見ていた」そうである。
 日経新聞の最終面接は9日にあった。文藝春秋でやらかしたにも関わらず、ここでも過ちを犯す。「芸能関係の取材になっても大丈夫か」という質問に対して、「普段から芸能ニュースにも関心を持っています。最近のニュースだと小林麻耶氏(姉)が癌だったことに大変驚きました」と答えてしまったのだ(癌になったのは小林真央氏(妹)の方)。その事実に新潮社に向かう電車内で気付いて落胆する(案の定、日経新聞は不合格)。
 しかし、その後にあった新潮社の二次面接は思い出深いものとなった。面接官が「昭和の企画みたい」と提案した企画を面白がってくれたり、おすすめの漫画を身振り付きで紹介すると食いついてくれたりと、私の良いところを存分に引き出してくれたからだ。就活2年目にして初めて、やりきった、と感じた。通過の電話をもらう。

NHK、共同通信など次々と最終選考へ

 11日、NHKの最終。さすがに欲が出てカチコチに。質問されたこともほとんど覚えていない。そのため、合格の連絡をもらったときは驚いて一人で泣いた。
 翌12日、共同通信最終。印象的だったのは、残り5分のところで「君はジャーナリズムとは何かが分かっていない。もっと深く勉強して」と言われたこと。不合格。
 15日、新潮社三次面接。「バイトは何してるの」「研究はどんなことしていたのか」など当たり前の質問が続いて不安になり、どうにかして自己アピールしてやろうとして自爆。お祈りメールが届いたときに、何のために2年も就活をしたのか分からなくなり、号泣した。
 最後に残ったのは、講談社二次面接。気合を入れて臨んだものの、「阿部和重氏を若者に読んでもらうにはどうすればいいか」「作家が古典の二番煎じを執筆したときには何をしてもらうのがよいか」と一筋縄でいかない。あえなく敗退。

マスコミ就活生へのメッセージ

 マスコミ就活は準備が大変だ。そして、大切だ。すごく準備したからと言って望みどおりの進路を進めるかは分からない。けれども、準備しなければ内定をもらえる可能性は限りなくゼロに近い。インターネットやSNSを利用して人に会う、災害の現場に足を運ぶ等なんでもいい。今すぐにでも動き出して欲しい。その動き出した先に縁・運その他諸々がある。応援しています。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。