「記者の仕事がしたい」
一心で臨んだ就職活動
T君/ NHK内定
沖縄で生まれ育ったことがひとつのきっかけに
将来の夢はと聞かれると「記者になりたい」と答えていた。沖縄で生まれ育ち、沖縄のジャーナリズムに日々接する中で生まれた憧れからだった。きっかけは沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したことだ。事故現場は、私の通っていた小学校近くだった。報道関係者はもとより、県警すら立ち入りが許されない事故現場に米軍は自由に入ることができる。県民として怒りが湧いてくると同時に、変わらない現状へやりきれなさを感じた。そんな中、あるニュースを見た。記者が「ここはPublic placeだろ」と立ち入りを拒否する米兵を抑えて、現場を取材していた。決して屈しない報道マンの熱意を感じた。
もう一つのきっかけは、祖母が大切にしている記事だ。20万余の戦没者を出した沖縄戦で家族をなくし、母親の形見の着物を手に戦渦を逃れた。終戦から50年、糸満市平和の礎で祖母は新聞記者の取材を受けた。15行程度の短い記事だったが、祖母は形見の着物と一緒に大切にしている。誰かに人生の宝物と思われるような記事が書きたいと思い、記者の仕事を志した。
転機となった震災・原発事故
学生時代、自分が記者になれるのか自信がなかった。まず、文章が得意でない、読書量が少なく国語のテストはいつも平均より下で、人と話すことも苦手だった。大学進学も紆余曲折を経ている。初めは地元の大学に進学したが、このまま地元にいるのも退屈だと思い、東京の大学に進んだ。一方で、沖縄に何かを残した気がして、何をするにも不完全燃焼だった。バンド活動やにわかに始めた読書から世間を離れて、人と一斉に就活をするのは無意味だと思い、自分が記者になりたいという動機も徐々に薄れていった。
転機は東日本大震災だった。新聞テレビで知る被災地の惨状を見て、このままでいいのだろうかという焦燥感と共に、自分が情けないと思った。それから間もなく、被災地に向かった。光景を目の当たりにして、言葉が出なかった。ただ、肌で現場を感じることができたのは意味があると思った。訪れて以降、被災地を自分のこととして感じるようになっていた。同じ思いを誰かに伝えたい、ここで「記者になりたい」という自分の思いを再確認するきっかけになった。
原発事故にも関心を持ち、原発の再稼働に抗議した。原子力安全・保安員の会見中に市民団体と詰め寄り、公安警察が来たこともある。不謹慎かもしれないが、その時の会見場の雰囲気に気持ちが高ぶった。会見に立ち会った報道関係者は、携帯で本社に連絡する。「番外編です。今、会見に市民団体が入り、公安が来ています。」騒然とした場に、ニュースが生まれている熱を感じた。夜のニュースと翌日の朝刊1面に、その場に居合わせた自分の顔が映っていた。
それから大学院に進学したが、「人より就職が遅れている」という自覚があり、現場に出て記者の真似ごとをしていた。貧困問題が気になり、新宿や池袋の路上生活者を尋ねた。路上生活だと住所が定まらず年金が支給されないという話を端緒に、年金機構や厚労省の文書を探った。取材を進めていく上で、事実かどうか裏を取る作業に手を焼いた。結局物にならなかったが、取材を通じて多くの人と出会い、世の中の問題を追及する仕事の楽しさを学んだ。
TBSの1次落ちで自分の甘さを痛感
就職活動は、順番から言うとTBS、テレビ朝日、NHK、朝日新聞だった。本命は、朝日新聞もしくはNHKと決め、面接に慣れる目的で民放を受けた。初めの面接、TBSは1次面接で落ちてしまう。ショックだった。「60秒で自己PR、志望動機を簡潔に答えて下さい」と面接官はストップウォッチを手に時間を計った。急に焦りだし、発言がおぼつかない。結局、短時間の集団面接で、自分をアピールできることはできなかった。
すぐに面接対策を練り、元新聞記者の人に願い出た。「次の試験に向けて頑張って下さい。切り替えが大事です」その後も、選考の重要な局面で、この人に何度も救われた。お酒を交わしながらジャーナリズムとは何か、記者の仕事とは何か、面接で必要なこと何か一緒になって考えた。対策の甲斐あって、テレビ朝日の1次2次を通過。学んだことは、前のめりになるくらい、自分から話をリードする方が心証は良いということだ。実際、テレビ朝日の2次面接では、時間をオーバーしてしまう。それでも面接官は「まだ話の途中のようなので、続けて」と時間をもらった。話をリードするには、こちらが話題の設定をすること。もちろん面接官からの質問に答える形で、準備した話題に導くことだ。
問題はテレビ朝日の3次面接だった。「年いっているけど大丈夫?」事実だが、痛いことを訊かれたと思った。「報道志望ということだけど、営業にまわされることもあるけど大丈夫?」確かに報道志望なので「試練だと思います。しかし、営業でも人と接することで、人を説得する方法だとか、話し方だとか、後々記者になった時に生かすことができると思います」と答えた。面接官は「いや、報道ができないかもしれないよ、それでも大丈夫?」と念を押した。民放は職種別採用ではなく、一括採用だ。報道志望であっても必ずしも希望が適うわけではない事情は知っていたが、報道だけは譲れなかった。
結果は不採用。しかし、本命のNHK、朝日新聞までに、ある程度の場数を踏むことができた。
NHKの筆記試験の作文「変」は、以前から学生仲間と週に1回作文対策をしていたものが出題されて、筆記をパスする確信が持てた。2次試験では、「やりたくない取材をさせられたら、どうする?」という質問があった。「どんなボールが来てもヒットが打てる記者になりたいと思いますので問題ありません」と答えた。面接官は「いや、何でもヒット打たれたら、こっちも困るよ」と苦笑。「じゃあ、バントでつなぐことも、考えます。空振りはしたくないですもんね」と私の面接は雑談ムードに入った。「空振りでも良いよ」と面接官。1次2次面接は、雑談を交えて受験者の良い所を引き出す面接だったと思う。
NHK2・5次面接で議題をまとめる役回り
NHKは2・5次面接以降が厳しかった。ここからは落とす面接だと感じた。初めの集団討論は「アルジェリア人質事件の実名報道について」というテーマだ。学生仲間と対策をしていたので論点整理が初めからできていた。賛成か反対かの立場で、私は3つの理由から賛成と答えた。大まかに言えば、事件の信憑性、事件を身近に感じてもらうこと、親戚や知人へ向けた安否情報の提供だ。新聞、テレビ、雑誌などで当時議論されていたものを自分なりにまとめたものだ。もちろん、実名報道に異を唱える受験者もいて、意見を汲んで意見集約した。後述するが、朝日新聞の試験においても、集団討論が実施された。ここでも、議題をまとめる役を務めた。メディアには短時間に論点をまとめる能力が問われていると自分なりに考えていたからだ。
集団討論を終了後、面接へ。奥行きのある広いフロアに面接官二人。距離があるため、声は届きにくい。それだけでも緊張するが、面接官の空気はこれまでの試験とは違い、質問が厳しい。「貧困問題に関心があるようだけど、君は母子家庭だそうだね。本当に貧しかったの、貧困が分かるの?」「母親は、沖縄に帰ってきてほしいと思っているんじゃない?」という。「広い意味で貧困状況にいたことは確かです。むしろ、当たり前のように日々過ごし、問題が目に見えないことがあるから良くないと思います。同じ立場にいた自分が代弁できれば考えています」
家庭のことについては、余計なお世話と思いつつも、事実、考えなければならないことだった。「親は私が夢を追う事については、やぶさかではありません。兄と相談して、沖縄にいる母親に東京に来てもらうことも考えています」とした。すると「そうか、じゃあ親孝行しないとだね」と面接官は言った。
最終面接は、スタートで失敗した。はじめに「今日の『おはよう日本』は見たか」と訊かれ焦った。「見ていません。緊張して寝付けが悪かったです。でも『あさいち』は見ました。」すると、険悪なムードになった。「昨日の『クローズアップ現代』で特集していたグレーゾーン金利に関心があり、世の中には法律が適用されないグレーがあります。ジャーナリズムは正しいかどうか世の中に働きかけていく必要があると改めて思いました」と他番組についてのコメントに切り換えた。
他方、「震災報道に関心があるようだけど、がれきの撤去について広く自治体に受け入れを勧めるにはどうしたらよいか」という質問があった。国も考えあぐねている問題を学生が答えを出すことはできないはずだが、それを答えなければならない状況だった。答えは「報道によって被災地が置かれている状況について理解を広めれば、多くの自治体ががれきの受け入れを検討すると思います。」報道の意味は、「被災地で被害のデータや数字だけで伝えるのではなく、困っている人がいる事実を伝えることで理解が深まる」とした。
最後に、自分が追究したいテーマを述べた。一つは事件報道。そして貧困報道と調査報道について語った。『ワーキングプア』や『未解決事件』、『追跡A to Z』など、NHKならではの調査報道があると述べ、すぐにはできないかもしれないが、将来はそのような仕事がしたいと言った
。
その日の夜に採用担当者から連絡があった。「最初はどうなるかと、ひやひやしたけど、後半でリカバリーできていたね」と心配していた様子だった。まず、母親に連絡して、泣いて喜んだといえば大げさだが、電話口からすすり泣きしている声が聞こえた。兄にも連絡した。「お前の小さい頃から今までのことが、走馬灯のように流れた。まさか受かるとは、すごいな」。家族に連絡して初めて、自分が望んだ就職ができて良かったと思った。
ちなみに、私が思う好感触を得る面接とは、その会社のツボを心得ていることが大切だということだ。NHKであれば、『NHKスペシャル』から、多くの話題作が出た。出版化されたものもあるので、それを参考にするとなお良い。このうち、自分のテーマにあう番組を分析して、面接の話題に持ってくることが重要だと思う。私の場合は、『ワーキングプア』だった。番組制作に携えた記者にも会ったこともあり、話題に事欠かなかった。『マス読』のイベントでもNスペのディレクターから話を伺った。
話題作りという点では、OB訪問は欠かせない。『マス読』には、その点でもお世話になった。『マス読』のグループOB訪問で、私の関心のある社会部の記者に会えて、その記者から聞いたことを面接で引用した。福知山線脱線事故や政治資金汚職を引き合いに「グレーな部分を世に問うことが記者の役割だ」とその人は言う。現役記者の言葉は、学生が机で知るより極めて説得力がある。OB訪問を通じて、単なる視聴者ではなく「記者予備軍」として試験に臨むことが必要だとも言っていた。
朝日新聞内定の連絡に母親が涙ぐんだ
NHKの採用通知があった際は、ちょうど朝日新聞の最終面接の手前だった。朝日新聞の採用試験は、筆記のうち、一般教養、時事問題に関しては特に難しいというわけではなかったが、小論文が厳しかった。タイトルは「政権交代」だった。また、民主党政権に代わった2009年の時期とは異なり、2012年の衆院選で自民党が与党に返り咲いたことで「政権交代」というワードがそこまで使われていたか疑問があった。案の定、受験した学生仲間も苦戦した様子だった。
筆記を通過すると、次は集団討論及び、1次面接だった。テーマは「結婚適齢期を設けることは、正しいか」という内容だった。『マス読』を読んで良かったと思うのは、過去に出題された、ディスカッションのテーマが記されていることだ。私が与えられたテーマも、既に対策済みだった。ここで弾みをつけて臨んだ1次面接は問題なかった。面接では、朝刊にあった子宮頸がんのワクチンに副作用があるという記事について持論を述べた。「国が作った政策には良い方向へ働くこともあれば陰の部分、副作用もあると思います。それを立ち止まって考えることは記者の仕事だと思います」。経験則として、マスコミ就職で必ず聞かれることは、「最近気になるニュース」あるいは「本日の朝刊、ニュース番組の感想」だ。ここを押さえていれば面接官の心証は良くなると思う。
次の2次面接前に、NHKより内定をもらうことができたが、迷いがあった。「本当は、新聞記者になりたかったんじゃないか」と自問自答した。しかし、NHKも優れた報道を続けており、そこでやりたいこともある。相談した兄からは「これも何かの縁だし、最初に採用が決まったNHKに行くのが礼儀でもあるんじゃないか」と言われた。また、NHKを断ったとしても、朝日新聞に受かるとは限らない。親のこともあるし将来を考えなければならない。逡巡の末、朝日新聞の2次面接を受け、間もなく最終面接への通知が来た。この時に、NHKの内定を辞退した。心配するので辞退の内容は伏せて、朝日新聞の最終面接に進むことだけを家族に伝えた。
就職活動中に面倒を掛けた元新聞記者の人には一言だけ伝えた。「NHKの内定は辞退しました。自分は長年思いを持っていた朝日新聞を選択することに決めました。大仰な言葉かもしれませんが、人生の中で唯一妥協したくないのは仕事を選ぶことです。朝日新聞の採用は不確定ですが、勝負に出ます」。採用してもらった会社への裏切り行為から、今後採用のチャンスは巡ってこないかもしれないという不安を感じていた自分自身への言葉でもあった。
最終面接では、今までの思いをすべて出す気持ちで臨んだ。やはり、面接官からはNHK辞退の理由について訊かれた。「たとえどんな会社に入って現場に向かうことがあっても、ここで逃げているような気概がなければ、取材することはできないと思いました。勝負に来ました」と言った。すると、面接官が「君は沖縄出身らしいね。私が知っている沖縄の人と違って真面目な感じがするけど……」そう言われて、自分が力みすぎていたことに気が付いた。
最終面接の日は、運がついていた。その日の朝刊では、消えた年金問題10億円という見出しが立っていた。これに関連して、大学院時代で私が調べていた年金問題と重なる部分があった。この話題をもとに、「私もこの案件について、重なる部分を調べています。調査報道の真似事ですが、資料からネタを掴むことの楽しみや経験がありますので、会社に入っても特ダネを書く自信があります」と言った。調査報道は朝日新聞が力を入れている分野であることは理解していたので、本や人から得た耳学問だけでなく、学生でも現場経験をしている点を訴えた。
夕方、採用の通知をもらった。「気概というか、男気に、採用するみなさんは魅かれました。来年からよろしく」とのことだった。照れくさいが、一心不乱になって、とにかく朝日新聞の記者になりたいという気持ちしかなかった。それが伝わってほっとした。
母親に連絡すると、また泣き出したようだった。後から聞いたが、その時、スーパーで買い物をしてレジで会計をしていた。レジの人に、息子が受かりましたと伝え、良かったですねぇと一緒に涙ぐんだそうだ。兄にも連絡した。「やっぱりな。絶対曲げないからな。それに内定辞退したとか肝心なことは言わないから、昔から。喜んだというより、今度は安心した。落ち着いたら、飯食いに行こう」
何度敗退しても敗北はしない
就職が決まるまで随分と時間が掛かった。地元の大学に1年、東京の大学に4年、進路が決まらず遊学していた1年、そして大学院。偶然が重なり、運よく就職が決まった。その間、記者に向いていないと人から言われたことや、自分で思うことは何度でもあった。来年受験する人たちにも言いたいが、希望する就職先に決まらなくても、どうか諦めないでほしい。朝日新聞もそうだが、地方紙からたたき上げで来た優秀な記者は多いようだ。タウン誌に勤務、取材力を身に着けて、全国紙の記者になったという話も聞いたことがある。また、NPOなどの広報担当で優れた情報発信をしている人もいる。様々な形で自分の思う仕事に携わる機会があって、そこから道を拓くことがきっとできると思う。
最後に、母親には随分迷惑を掛けた。長い就職活動を支えてくれた母親にようやく胸を張って親孝行ができる。今まで苦労を掛けた分、これからは楽をさせたい。ようやく誰かに感謝を伝えることができるのも、運が良かったからだが、最終的には逃げない姿勢を見せたことだと思う。私から言えることは、何度敗北しても、敗退はしない、諦めないでほしい、ということだ。