九州から全国行脚のアナウンサー試験

N君/就職活動中

 生まれて初めての面接はTBSだった

 夏の暑さもどこかへ飛んで行き、秋の涼しさを感じられるようになった2010年10月3日、私は東京の赤坂にあるTBSの前に立っていた。生まれて初めて就職面接というものを受けることになったのだ。今思えば、私のアナウンサー受験奮闘記の全てはそこから始まったのだった。
 皆さん、ご存知かもしれないがアナウンサー試験というのは他の企業の採用試験と比べると “異質” である。
 ESには自分自身を表現している写真を何枚も載せる。実際の面接では、カメラの前でニュース原稿を読んだり、スポーツの架空実況をしたりと、普段では経験することのできないことができる場なのだ。
 せっかく仕事をするのであれば、人がなかなか体験できないことをやりたい。その中で、言葉を使って多くの人の心を動かすことができる職業につきたい。簡潔に言うと、それがアナウンサーを目指したきっかけである。
 私は、生まれも育ちも、そして現在通っている大学も九州の福岡県である。受験を始めたばかりのころは、果たして関東や関西の学生と戦うことができるのか? これが心の中にある正直な本音であった。確かに、遠距離移動や言葉のイントネーションの違いなど多少不利な点はあるかもしれない。しかし、「やってみなければわからない!」昔からこの言葉を座右の銘にしている私は、かねてからの夢を叶えるべくアナウンサー受験をスタートさせたのだ。
 ところが、初っ端から心を折られてしまった。東京キー局のESでフジ、日テレ、テレ朝とことごとく書類落ちの現実を突き付けられたのだ。
 そんな中、TBSは選考希望者全員と面接をしてくれるということだったので、最初にも書いたように私は生まれて初めて面接を受けることとなった。
 選考会場に到着した瞬間、私はその場にいる多くの学生の雰囲気に圧倒された。宝塚に所属していそうな女性の方もいれば、どこでオーダーメードしたんだろう?と思うようなド派手なスーツを身にまとった男性の姿もあった。これだけではなく、とにかくいろんな個性を放っている人達が自分と同じ学生であるということに驚きを隠せなかった。
 そして、いざ面接が始まるとなんとそこにはTBS土井敏之アナウンサーの姿があった。土井アナウンサーのスポーツ実況は私も普段から耳にしていた。そんな方が面接の場で面接官として目の前にいたものだから、自分では落ち着いているつもりでも、言葉がカミカミで、思っているように話をすることができなかった。
 そうこうしているうちに面接は終了し、私の最初の面接はあっけなく幕を閉じた。

 テレビ東京、準キー局と次々と面接体験

 面接を受けたとは言っても、いまだにESが通らない。悔しい気持ちを持ちながらも、とにかく今一度自分を振り返り、中身のつまったESを作ろうと思っていた。しかしまだ結果が出ていない。
「やっぱりだめなのか、自分には向いていないのか」と思っていた矢先のことだった。なんとテレビ東京から面接の案内が届いたのだ。つまり、初めて「ESに通過する」という経験をしたのだ。
 当時、このことはめちゃめちゃ嬉しかった(まだ面接すら行っていないにも関わらず(笑))。
 数日後、テレビ東京に足を運んだ私は、とにかく色んな人と話して、まずは同じ道を目指す仲間を作りたいと思っていた。
 その思い通り、面接で知り合った仲間と試験後に食事をしにいった(この仲間が今後のアナ受験の中で非常に大きな存在となることは当時は全く知る由もなかったのだが)。
 その後、関西圏の準キー局と呼ばれる放送局の試験がスタートした。この頃からESで落ちることは格段に少なくなった。
 関西テレビでは、初めて面接を通過するとその後残り40人程度というところまで進むことができた。九州の学生でもやれるかもしれない! もっと頑張れば、夢は叶うかもしれない。そういう風に当時思えたことが、最後まで地方局のアナウンサー受験を続けることができた要因ではないかと思う。
 正直、関西の局くらいまではミーハーな気持ちで受ける人、記念受験で受ける人が山のように存在する。
 しかし、諦めずにその後も受け続けることで、アナウンサーの内定を獲得してきた仲間はこれまでにたくさん見てきた。
 私も、関西テレビの時の出来事がなければ、その時点でアナウンサー受験はやめていたかもしれない。
 このアナウンサー受験を通して、腹をわって話をしたり本音でぶつかり合えるような仲間たちと出会えて本当に私は幸せだったと感じている。
 そういえば、先ほど「叶う」という表現をしたのだが、この言葉は最も私の好きな言葉である。人は言葉を「吐く」ことで普段から生活を送っている。これは口でプラス(+)のこともマイナス(−)のことも出していることから「吐」という漢字が出来上がっている。
 では、その中から(−)の言葉を取り払い、いつも(+)の気持ちを持ち、生活するとどうなるだろうか。絶対にこうなりたい!という(+)の思いが強ければ強いほど、(−)の文字が取り除かれ、そのうち「叶」という字が完成していく。
 つまり、思っていることがきっと叶うのである。
 だからこそ、私はいつもプラス思考で、絶対にアナウンサーになるんだ!ということを多くの人に話してきた。
 最初は恥ずかしかった。でも、それを聞いて応援してくれる仲間たちがいて、またお互いに切磋琢磨しながら頑張ることができる仲間を手に入れることが出来たのは「叶」のお陰だったのではないかと今では思っている。

 全国各地を回りアナウンサー受験

 さて、私は受験で全国各地を訪れる度にその土地を精一杯楽しもうと心掛けていた。せっかく高いお金を払って遠方まで来ているのだから、試験だけを受けてすぐに帰るのは凄くもったいないと思う。それに、今まで知らなかった土地を知るということは自分自身の人間的成長につながると共に、それが面接ネタにおいて非常に生きてくるというふうに受験を通して感じた。
 面接官は、一日に何十人もの人を相手にしているのだから「ありきたり」であったり「自分のことだけを話す人」というのは面白みのない人だと評価されかねないと感じる。
 それよりも、前日に現地に入って「そこで何を感じたのか」とか、当日の朝、「面接会場に足を運ぶまでにどんな発見があったか」などの、新鮮であり、なおかつ自分だけのネタを話すほうが「こいつは面白いやつだなぁ」と思わせるのではないかなと受験を通して実感した。
 あと、何よりも大切なものは「体力」と「体調の管理、判断」だなと、この受験を通して感じた。例えば、2月22日私は地元の福岡から高速バスを使い宮崎へ試験を受けに行った。宮崎では受験の仲間と飲み明かし、翌日も宮崎にて試験があった後、バスで福岡へ戻り、翌日の朝から福岡の企業の選考を受け、そのまま新幹線でテレビ新広島へ向かった。この時点で私の体力はほとんど尽きていて、翌日試験を受けるにはあまりにも悪いコンディションだと判断した。
 そのため、本来は翌日の静岡朝日放送の面接のために静岡へ向かう予定だったが、休養を取り、27日の長崎放送の受験に備えていたのである。
 皆さんもいずれ感じるかもしれないが、試験が立て込めば立て込むほど自分の体調管理が重要となるということを、是非頭にいれて頂きたいと思う。

 カメラテストで味わう緊張感

 さて、そんな私は2月27日、長崎放送の試験で初めてカメラテストを受けることになった。自分の番が回ってきて、スタジオへ一歩一歩近づいていく時の緊張感は計り知れない。そして、頑丈な扉が開いた先にはよく目にするような大きなカメラが1台、2台、3台…と並んでおり、一斉に私の姿をそのレンズで撮り始めるのである(あの感じは、いくつ試験を受けてもなかなか慣れるものではないなと感じた。だからこそ、当たり前のようにこなしているアナウンサーの方々は本当に凄いなと改めて感じることが出来た)。
 また、カメラテストでは時として予想だにしない質問が飛んでくることもある。
 例えば、「では今から、あなたの十八番を歌ってください。さぁどうぞ!」という感じである。今まで歌ったことは二度あるのだが、その曲が北島三郎さんの「祭り」、松山千春さんの「大空と大地の中で」である。なかなかウケがよくて救われたのだが、不意に言われるとなかなか出てこないものだと実感した。機転を利かせることが大事な仕事だからこそ、そういった能力も見られるのだろうなと思う。
 さて、中程で本当に良い仲間たちと巡り合うことが出来たと述べた。
 最初、受験を始めた頃、自分が通ればいい。人のことは気にしない。という気持ちが多少なりともあった記憶がある。だから、最初に面接会場に行ったときもあまり話しかけることはできなかった(緊張していたというのもあるかもしれないが)。
 しかし、12月以降になると私は自らどんどん声をかけるようになった。そして、時間の許す限り、アナ受験の仲間たちと食事に行ったり、ボーリングやカラオケに行ったり、飲みに行ったりしていた。そういう機会を設けることによって、他の仲間が一体どういう人間で、どういう考え方をしているのかというのを知るきっかけになったり、一人でいる時には絶対に入ってこなかった情報を手に入れることができたりもするのである。例えば、東海の友人が出来たときに東海地方の採用情報などを教えてもらう代わりに、私は九州地方の採用情報を教えるといった感じである。
 そういった遠くの地方の友人ネットワークを作ることも、このアナウンサー受験の魅力の一つであると感じた。
 結局、アナウンサーという仕事は自分一人ではできない。そこにはプロデューサーやディレクター、カメラや音響や技術などの方がいて初めて一つの番組として成り立っていく。
 だからこそ、自分のことばかりを考えていては仕事にならないのがアナウンサーだと思っている。

 絶対に諦めずにこれからもアナ受験を

 いろいろと述べてきたが、実際に試験にはよく言われる「運」とか「縁」というものはあると思う。ただ、その運や縁を手に入れるためにも、これでもか!というほどの準備をして臨む必要はある。  私は、現時点でアナウンサーにはなっていないが、この約10カ月の期間を無駄にしたとはみじんも思っていない。
①人との出会いを大切にして
②日本各地の知らなかった伝統や食文化を学び
③将来の自分を形成する上で何が足りないか、何が必要なのかを発見することが出来た。
 もちろんいつかは同士の仲間たちが働いている同じフィールドで働きたいという思いを強く持っている。だからこの先も試験を受けていくつもりであり、諦めなければ、絶対に叶うことを信じて、これからの1日1日を大切に過ごしていこうと思っている。

 最後に。
 自分自身もそうだったからこそ、この道を目指す皆さんにも絶対に諦めて欲しくはないと思っています!! 自分には向いていないかもしれないとか、ここまでやったからもう十分だとかいう制限をかけるのは本当にもったいないと思います。だって、まだ20代だから動こうと思えば何でもできるじゃないですか? うん、きっと出来ると思います。
 なんか偉そうに綴ってしまい恐縮ですが、これが皆さんに向けて残せるメッセージなのかなと思いました。
 将来、同じフィールドで働けるようにお互い頑張りましょう!!


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。