最初はテレビ志望、内定は広告会社

A君/大手広告会社内定

 刹那的就職活動。私が就職活動について誰かに話すとき、いつもこの言葉から始める。「日本の政治をもっと元気に」。数多ある企業の中で、この夢を成し遂げられるのは日本テレビだけ。その一社に「賭ける」。そのあとのことは一切考えていなかった。刹那的というほかない。
 だから私の就職活動一発目は、その日本テレビだった。
 日本テレビは大容量のエントリーシートが特徴的だ。本気で受ける気がなければ辞退する人も多い。私も例外ではなく、書き上げては添削してもらい締切ギリギリに郵送した。

 日テレ一社に賭けた。しかし、敗退

 1次面接。広大なホールに数十のブースが設けられている。番組研究をした自信と大声を武器に、憧れの日テレ社員に想いをぶつけ続けた。「他にやりたい企画ある?」との質問にも、落ち着いて対応できた。テレビ局を本気で志すなら、企画案は一つでは寂しい。
 筆記試験。グランドプリンスホテル赤坂。朝から夕方まで、ひたすらペンを走らせた。試験中、無理を言ってトイレに行かせてもらい、名前とIDを控えられた瞬間はもうだめだと思ったが、通過。そんなことぐらいでは企業は落としたりしない。
 2次面接。両手に「合宿」と書いて、ぐぅっと握りしめて面接に臨んだ。例年通りであれば、次の選考は合宿だと知っていたからだ。結果当日。20時までに通過者のみに電話すると言われ、東京タワーの展望台から汐留方面に土下座しながら電話を待った。携帯が鳴ったのは19時51分。うわぁっと叫んでカップルたちを驚かせたに違いない。結果は最後の1秒まで分からないものだ。
 そして合宿選考。年末に2泊3日で汐留の高級ホテルに泊まり、個人とグループで2つの映像作品を作る。だが、この合宿が地獄だった。一日中人事担当に張り付かれ、心身ともに疲労が尋常ではない。そのせいか、受験者のレベルは途方もなく高く感じられ、自分の企画書が恐ろしくつまらないものに思えてくる(実際そうだったのかもしれない)。
 いずれにせよ、私の日テレ志望はここで完全に打ち砕かれた。所詮は憧れに過ぎなかったのだ。真冬の外ロケも、企画にぴったり合う話を聞くまでに街頭で100人から無視されることも、そのときの私には耐えられなかった。
 年が明け、結果連絡の日。電話は鳴らなかった。分かっていたものの、落ちるのはやはり悔しい。何より日テレ一筋で突き進んできた私は、完全に指針を失ってしまった。
 しかし時間は待ってくれない。1月末まで在京キー局のエントリーラッシュ。添削してもらう余裕も気力もなく、何とかテレビ朝日とフジテレビのESを出す。フジテレビのESは飲み会前の30分で完成させた。ほとんど諦めていたからだ。TBSとテレビ東京に至っては「受かっても行かないと思うから」とエントリーすらせず。今思えばリスクしかない。

 遅まきながら広告会社も志望先に

 一方で、遅まきながら総合広告会社も志望の一つになった。政治に直接関わる仕事があると知ったからだ。政府広報や省庁主催のキャンペーンには総合広告会社が深く関わっている。一大学生のイメージだけでは分からない仕事が、世の中にはたくさんある。
 2月は民放の選考が続く。まずテレビ朝日の1次面接。日テレで残り56名に食い込んだことが大きな自信になっていた。通過し、2次面接。初めて「失敗した」と感じた面接だった。今までウケていた話をしても、面接官の反応が良くない。挙げ句の果てに「では、バラエティ番組の中で好きなのはスマステということですね」と言われ「いえ、情報番組の中で、ですね」と口答えしてしまう。当然不通過。話が噛み合わず、面接後にモヤモヤしていると大体落ちているものだ。今考えてみてもアレは本心での発言だったのか、カマをかけられていたのか分からない。
 次にフジテレビ。その前に一つ言っておきたいのが「フジテレビだって普通の企業」ということである。よく「フジテレビはコネがないと受からない」と言われる。だが、それは全くの嘘だ。もちろん内定者の中にはそういう人もいるだろうが、あくまで一部に過ぎない。コネがなくとも内定した私の友人もいる。この手の噂は就活にツキモノだが、気にするだけ無駄である。
 なぜこのような前置きをしたかというと、私自身この噂を半分信じていたからだ。「コネ採用ばかりの中で自分が受かるわけがない」と思いながら、冷やかしで面接を受けていた。実際、2次面接までは「日テレに行きたかったんですが、落ちたのでフジを志望しています」と自ら進んで言っていた。聞かれたならともかく、わざわざ言う必要はない。
 ところが、そんな投げやりな気持ちとは裏腹に通過の知らせが次々に届く。フジテレビは3次面接の通過通知から電話連絡に切り替わるのだが、それは人数が絞られている証拠でもある。その頃からフジテレビに本気で行きたいと思うようになった。
 2月28日。4次選考は人事面談、健康診断、筆記試験と朝からの長丁場である。とは言え、選考のキーはやはり人事面談だと思う。人事の方が次の局長面接、そして最終面接に推薦できる人材かどうか。何か突き抜けたものがないといけないと「政治と言ったら僕です」と印象づけるよう心掛けた。「最近気になるニュースは?」との質問にも「ワタミ社長の都知事選出馬です!」と即答し、今の政界への不満とそれに対する番組企画を丁寧に話した。

 フジテレビは最終で敗退

 3月4日。局長面接では、ホームページで何度もお目にかかった面々がズラーッと並んでいた。9人はいただろうか。左端から右端まで満遍なく見渡して話すよう意識した。「君、話すときすごく手が動くね」と指摘され「あ! はい! すみません! ついアツくなってしまって…」と返すとニコニコしてくれたのを覚えている。
 電話はその日の夜に鳴った。もうここまで来ると、受かるためなら何でもするようになっていた。面接の帰り道ひたすらゴミ拾いをしてみたり、その中で拾ったチョッパーのキーホルダーを筆箱にしまってみたり(ワンピースはお台場冒険王ではお馴染み)。端から見たら完全におかしい。
 帰宅して借りてきた「THE 有頂天ホテル」(フジテレビ制作)のDVDを観ながら待っていたが、気が気でない。全く面白くないのだ(電話のあと一から観て号泣した。笑って泣けるオススメの映画)。携帯に「非通知設定」の文字が表示された瞬間は本当に心臓が飛び出る思いだった。
 そしていよいよ迎えた最終面接。3月7日。12時30分にフジテレビ1階のロビーに集合し、それまでとは明らかに違う雰囲気の控え室に連れて行かれる。何やら高そうな置物が緊張感を高めていたが、はっきり言ってこの時点では自分は内定するものだと思っていた。顔を合わせた総合職の受験者は30人。例年の採用人数からすれば落ちるのは数名だと思ったからだ。その数名に自分が入るわけがない。もちろん、冷静に考えればその30人全員が同じ選考を通過したのだから、根拠のない自信である。
 トイレを済まし控え室に戻ると自分の名前が呼ばれた。残る受験者に「行って来ます!」と爽やかに言い放ち、役員の待つ部屋に案内される。「失礼します!」。この挨拶だけは誰にも負けないように声を張った。ドアを開けると、10名ほどの役員がずらり。自己紹介を済ませ座るやいなや人事局長が聞いた。
「ここまで来てどう?」
 これが、就職活動を通じて私が最も動揺した質問である。「どうって、何がどうなんだよ!」と考えること1秒、何か答えなければいけないと口を開く。
「あっ、えっと……、フジテレビに来るのは今回の就職活動が初めてで……」

 その後は何を言ったかよく覚えていない。「前原外相の辞任についてどう思うか」「今の民主党はどうか」などの質問にも「面接官の世代から考えて親自民なのか?」とかくだらない憶測が飛び交い、答えに集中できない。何回噛んだか知れない。そして、
「君、何かあったときそうやってパタパタするの?」
 これが決め手だった。テレビマンたるもの、いかなる事態にも冷静かつ堂々とした対応が求められるものだろう。採用面接ごときにテンパる肝の小ささを見透かされてはいけない。それは自信のなさを露呈しているのと同じことだからだ。
 結果はその日の21時まで。友人は19時に電話が来たという。「最後の1秒まで諦めない」と携帯を握りしめて待っていたが、遂に電話は鳴らなかった。このときの感覚は今でも忘れられない。よく就活は恋愛に喩えられるが、本当に告白が実らなかったときのようにキュゥーッと胸を締め付けられた。未練がましく人事部に電話をかけたりもした(意味ない)。結局その日はショックで家に帰れなかった。
 次の日からしばらく悪夢に苛まれた。「ここまで来てどう?」が頭を駆け巡った。なぜあそこで「楽しいです!」と切り返せなかったのか。何度あの瞬間に戻りたいと思ったことか(夢でも一度も内定はもらえなかった)。

 最終面接であの質問が…

 そんな中、迎えた大手広告会社の1次面接。今回もまた、のちに内定をいただく企業とは思えないほど投げやりな面接だった(フジテレビでの反省が活きていない)。「日テレとフジの広告枠を買い叩いてやりたいです!」と、私怨たっぷりの広告志望者である。
 それが3月11日の昼。赤坂から帰路につく途中を大地震が襲った。それから就職活動は全面的にストップ。電通と博報堂の選考は結局5月まで持ち越された。この間、花見をしたり被災地に物資を送ったりしてのんびり過ごした。就職活動からはさっぱり離れていたから、延期されなかったNHKの1次選考(面接+筆記)には抜け殻のような身で臨んだ。「◯◯大学の△△です」と挨拶することすら忘れ、納得の不通過。しかし、この期間が気分転換と企業研究の良い機会になった。
 4月の予定はほぼ白紙。5月になり学校が始まると、辛かったのは友人が内定持ちだらけだったことだ。一般企業の中には4月中に選考を終えた企業も多く、私はそういう企業に無関心だった。3月頃までは外資系企業か民放局の選考ぐらいしか始まっていない。民放でそれなりのところまで進んでいた私の自信も、5月になれば「無い内定」という言葉で括られた。一方で行きたい企業の選考が延期されていく歯がゆさ。この時期は本当に卑屈になっていた。
 大手広告会社の選考が再開したのは5月18日。朝からディベート、グループディスカッション、クリエイティブテスト、小論文、社員質問会と、ここまでやるかと詰め込まれたスケジュールだった。
 それにしても、顔を合わせたばかりのライバル達とのっけからディベートするのだからやりづらい。私は主張と反駁を繰り返しながらも、常に笑顔で、議論の空気が良くなるよう努めた。その道のプロの目の前で下手に論理を振り回すよりも(そもそも振り回すほどのロジックを持ち合わせていない)、学生の素直な意見を爽やかに述べる方がずっと印象が良いと踏んだからだ。グループディスカッションも同様である。これはのちの人事面談でも評価された。
 クリエイティブテストは2月の筆記試験でも実施される。突拍子のない答えよりも「なるほど」と思わせる答えを思いつく限り書いた。人が「面白い」と思う感覚は水物だ。ならば誰もが「腑に落ちる」答えの方が確実に得点になるだろう。そう考えたのだ。
 一方、小論文は自分の文字だけが評価の対象だ。とにかく丁寧な字と分かりやすい段落構成を心がけ、あとは自分の知識と論理能力に任せた。
「おめでとうございます。次は最終面接です」。5月23日。結果の電話は諦めた頃にかかってきた。「5月末までに通過者に連絡」と言われていたが、こういうことは掲示板サイトや友人からの情報で何となく察しがつく。その日も気持ちを切り替えて一般企業の選考に向かう矢先にかかってきた電話だった。
 慌てて知り合いの先輩に連絡を取り話を聞いた。こういうとき親身になってくれる先輩がいるのはすごく心強い。さらに「最終面接で全力を出し切ってもらうために」と本社で人事面談があった。
 そして二度目の最終面接。5月26日。「何でフジテレビに落ちたと思う?」という質問では「一番の原因は『ここまで来てどう?』と聞かれてつまずいてしまったからだと思います」と答えると、すかさず返ってきた。
「なるほど。ここまで来てどう?」。
 正直、答えを用意していたわけではなかった。が、にやっと笑って質問する面接官を見て、夢で何度も練習した切り返しが自然と口から出てきた。
「楽しいです! 御社の選考には、エントリーシートから最終面接まで楽しんで全力で臨むことができています!」
 勝負あった。帰り道、家族には「多分大丈夫です」とメールした。そして待つこと5日、5月31日。本社に呼ばれ、人生初の内定をいただく。その後1週間、友人を誘っては祝勝会を開いてもらった。このために努力したと言っても過言ではない。
 6月9日。私の就職活動が終わった。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。