昔から好きだったテレビの仕事に

Yさん/テレビ東京内定

 私は昔からテレビが大好きだった。高校生の頃には番組の企画に参加したし、好きなドラマは毎週欠かさずチェック。芸能ネタが大好きでテレビへの憧れは人一倍強い。大学生活ではミスコンに出たり、ファッションショーに出たり、とにかく楽しいことが大好きだった。そんなミーハーな私が就職活動を意識し始めたのは3回生の5月頃。漠然とマスコミへの憧れや、テレビに関わる仕事がしたいという気持ちはあったが、 “無理に決まってる”という思いから、特別にマスコミ対策などはしていなかった。みんなと同じように学校のガイダンスや自己分析セミナーに出席し、いろんな業界に目を向けた。
 しかし、この仕事がしたいと強く感じることはなく、やっぱりテレビに関わりたいと思っていたころ、読売テレビと毎日放送のインターンがあることを知った。エントリーシートには写真課題などがあり、とても時間をかけて完成させた。自信満々で提出したが、両方とも結果は不合格。テレビ局は難しい! やっぱ無理や! そう思ったのを覚えている。
 学校では、就職試験対策の模試や、自己分析用の診断テストなどが行われた。参加できるものにはすべて参加した。学校の就職ガイダンスも月に1回程度開催され、私はすべてに出席した。就活生が集まる場所は、意識が高まるいい機会だった。

 アナウンサー試験敗退したが自信も

 10月になり、とある番組に出演できることになった。東京での収録に参加し、収録現場に自分がいるということがとても新鮮だった。ここでの体験が、よりテレビの仕事がしたいという気持ちを強くさせた。収録の次の日に東京でTBSのアナウンサー試験があることを知っていたので、初めての面接を受けることに。今年度のTBSのアナウンサー試験は、エントリーシートを持っていけば面接が受けられる(但し、事前にWebテスト受験が必要)というものだった。東京にいるんだったら受けてこよう! 何事も挑戦しないと始まらない! そう思い面接会場へ。周りにはアナウンサースクールに通っている人たちや、マスコミに向けて頑張っている人がたくさん。私はなんて場違いなとこに来てしまったんだろう、と思いながらも、待ち時間は座席が近かった4人の女の子と一緒に就活の話をして過ごした。ここでできた友人とは、今でも付き合いがあり、就活中も連絡を取り合った。
 この日気付いたことは、テレビ局を目指す人は特別な人だけではないということ。私は最初から自分には無理だとあきらめていた。それはとてももったいないことだった。この面接をきっかけに、本気でテレビ局志望を考え始めた。周りのみんなからは「本気?」などと言われたこともあったが、私はやりたいことを仕事にしたい、と希望を捨てなかった。
 エントリーシートの練習に、3社アナウンサーのエントリーシートを提出した。学校などのエントリーシートの添削では、合否がわからないので、早くに募集のあるアナウンサーは絶好のチャレンジの場だと思った。応募するとなると集中して書くことができた。しかし、応募後に書き忘れなどの小さなミスが見つかったり、がっかりすることも多かった。
 この時に、もう二度とミスはしまいと、応募の際のエントリーシートチェック表を作り、応募の際は毎回確認した。結果、朝日放送アナウンサーのエントリーシートのみ通過。
 そして面接の日。エントリーシートの通過率が10%であったことを教えていただいた。このことが自信につながった。面接は残念な結果だったが、経験値は確実に上がった。
 それからしばらくは、テレビ局や芸能事務所、その他メーカーなどの説明会に足を運んだ。説明会の参加数は周りの友人らと比べるととても少なかったと思う。それでも私はとても満足だった。説明会は参加数が多ければいいというものではない。一つ一つの内容や、そこで得たことをどれだけ自分の栄養とし取り込むかだ。説明会の中には、実践型のセミナーなどもあるので、後輩のみなさんにはそういう説明会に一回は参加してほしい。せっかく参加するのであれば、意味のある時間を過ごしてほしい。私はグループディスカッションのセミナーや模擬面接など、実践型に多く参加した。考えるよりも実践だと思ったからだ。年末までは、こうして説明会やセミナーに参加したりしながら過ごした。

 年明けから本命のテレビ局技術職の試験

 冬休みが来た。冬休みはエントリーシートを書きまくった。1月から2月にかけて、テレビ局はエントリーシートラッシュ、面接ラッシュを迎えることを『マスコミ就職読本』を読んで知っていたからだ。アルバイトの履歴書とは違い、エントリーシートを完成させるのには時間がかかる。1日1枚書くと考えても冬休みに頑張らないと学校のテストの時期にエントリーシート地獄になることはすぐ想像できた。夢中になって朝まで写真課題を作成したり、自己PRを考えることもあった。自己PRは何種類も書き、1つのパターンを完成させた。そこからはエントリーシートの作成にほとんど時間がかからなくなった。

 年が明けてから、本命のテレビ局技術職の採用が本格的にスタート。1月15日、初面接だった読売テレビの面接では、話すのが上手だととてもほめていただいた。自己PRの練習は何度も何度もしていたし、これまでに2回アナウンサー面接に行っていたので、その経験がとても役に立った。しかし1月19日の2次面接の質疑応答で、まったく言いたいことを伝えることができなかった。完全に準備不足だった。それでも落ち込んでいる暇などなく、失敗は次に活かすことが大切だ。家に帰ってから、考えられるあらゆる質問の答えを書き出した。もちろんすべてを頭に入れるわけではないが、書き出すという作業で頭の中を整理することができた。この面接から、私の面接ラッシュが始まった。
 エントリーシートは8割通過した。しかし、関西テレビと毎日放送は本当にご縁がなかった。生まれも育ちも大阪の私にとって、なじみ深いテレビ局だったので、残念だった。しかし、フジテレビ(一般・技術)、TBS(技術)、日本テレビ(技術)、テレビ東京(技術)のいわゆるキー局のエントリーシートは通過していた。
 ここにテレビ朝日がないのは、インターネットからの入力が間に合わなかったからである。私はほぼ白紙のままエントリーしてしまったのだ。余裕を持って予定を立てていたが、こんな初歩的なミスをしてしまった。チャンスを自分の手で失ってしまったことがとても悔しかったが、時間は戻らない。気付けば次の面接のことで頭がいっぱいだった。この前向きさには、自分でも驚いた。
 1月下旬から4月下旬の4カ月間は、東京や名古屋に何度も何度も面接を受けに行った。同じ日に名古屋と東京で面接がある日もあり、移動がとても多かった。連日夜行バスで寝たこともあったし、本当に体力勝負だった。

 誕生日の3月11日大震災で就活ストップ

 1月30日、学校のテスト真っ最中に名古屋テレビと日テレの面接があった。名古屋から東京への移動は時間ギリギリ。日テレの待ち時間はもうクタクタになっていた。ここで気付いたことは、周りはほとんど院生であるということだった。「平成生まれ? え? 1990年? 若いねー!」と社員の方にも受験者の方にも言われ、また少し自信を失ってしまった。 ?テレビ局は無理? という気持ちから始まった私にとって、院生だらけの環境は、自分が劣っているように感じてしまったからだ。たまたま隣にいた学部生の男の子からは、「技術職は院生じゃないと厳しい」とか、「やっぱり技術職で女性は厳しい」とまで言われてしまった。帰りの新幹線では、その言葉を何度も思い出した。確かに学部生の女性はここでは少数なのかもしれない。それでも受験資格をクリアしているし、エントリーシートは通っているし、そんな言葉に負けてられるか!と負けず嫌いに火がついた。
 2月18・19日は東京で開催された「TV EXM」に参加した。テレビ局は狭き門だが、テレビに関わる仕事はテレビ局だけじゃない。「TV EXM」では制作会社12社程の説明会に参加した。同じ学科の友人も一緒だったので、お互いに感想を話しながら有意義な時間を過ごした。制作会社はとっても魅力的だった。番組を制作するにあたり、制作会社はなくてはならない存在であり、今は制作会社だけでひとつの番組を作っていることも多いそうだ。それでもテレビ局にこだわったのは、私は発信するということが好きだったからだと思う。私が感じたテレビ局と制作会社の決定的な違いはこの発信、という点だった。

 2月20日のフジテレビ。21日の東海テレビと中京テレビ。22日のフジテレビ。24日のフジテレビ。ほぼ毎日面接だった私はそろそろ面接慣れし始めていた。緊張も最初程はしなくなり、面接を楽しむことができた。今日はどんな方と会えるかな? A君やBさんはいるかな? どんなこと聞かれるかな? 私のことを知ってもらいたい! そんなことを考えながらわくわくしていることが増えた。そのため、面接は苦ではなかったし、笑顔が印象的だと言われることも多かった。
 2次面接で不合格通知が続き、私の持ち駒は、東海テレビ、テレビ東京、九州朝日放送、中部日本放送、テレビ大阪の5社になった。
 そして私の誕生日の3月11日。東北地方太平洋沖地震が起こった。一気に就活がストップしたが、私の場合は東京での開催がテレビ東京のみだったため、他のテレビ局は選考が進んでいった。東海テレビとテレビ大阪は次が最終面接、というところで残念な結果だった。3月末に、塾の内定を頂いていたが、残るテレビ局はテレビ東京のみ。次の選考はいつになるか待ち遠しい日々が続いた。
 そして4月15日。テレビ東京の筆記試験があった。約4時間にわたる試験。ここまでくると周りはだいたい知っているメンバーだ。休憩時間は就活状況などを話して過ごした。時事テストに少し不安はあったが、全体的に出せる力は出し切った。これでダメでも悔いはないな、と思いながらも結果連絡がくるまでは本当にドキドキの日々だった。
 結果は通過。4月21日に2次・3次面接があった。人事の方に、「恐い人はいないから大丈夫。頑張ってね」と声をかけていただき、人事の方とも話す機会が増えた。結果は次の日に電話連絡。祈るように携帯を見つめた。非通知からの着信がきたときには涙が出るほどうれしかった。

 新幹線の中で聞いた内定の連絡

 そして迎えた4月26日の最終面接。事前に配布されていた最終用の履歴書を持って東京へ向かった。東京へ向かう新幹線では今までの面接について記録していたノートや、『マスコミ就職読本』を何度も読み返していた。最終面接は集団面接。時間は30分程だったが、本当に一瞬だった。これで終わり? 私まだ全然話してない! 全力を出し切れなかったというのが直後の感想だった。結果連絡は当日の14時。終わったのが13時前だったので、1時間後くらいには結果がわかるという状況だった。人事の方に「すぐに大阪に帰る?」と聞かれ、「せっかくなので観光して帰ります」と言ったものの、絶対ダメだった、ととても落ち込んでいたので、速攻新幹線で大阪に向かった。iPhoneで音楽を聴きながら寝ようとしていたら、イヤホンから着信音……。表示は非通知……。座席から走って電話のできるところへ向かった。結果は内定。内定の言葉を聞いたときは、心臓がドキドキしているのが聞こえてきた。すぐに東京に戻ってきてほしいと言われ、人事の方がすぐ帰るか確認したことを思い出した。結果がわかるまでは東京にいるべきだった。その時私は横浜にいた。すぐに折り返したが、他の内定者との集合時間には間に合わず、違う時間に一人で説明を受けサインをした。あきらめないでよかった、と心から思った。
 就職活動を終えて3カ月が過ぎた。1年前の今頃は ?テレビ局は無理? としか考えてなかった私が、テレビ東京の内定者研修に参加している。後輩のみなさんには、 ?無理? という気持ちを捨ててぶつかってほしい。マスコミ就職読本を手に取っているということは、テレビ局を含め、マスコミの仕事がしたいと思っているということ。その気持ちを大切にしてほしい。学歴や経験、今から変えられないことを理由に不安がるのは時間の無駄だ。なんて偉そうに言っている私も、去年の今頃はあきらめていた人間。今からじゃ間に合わないなんてことはないので、ぜひ挑戦してほしい。
 そして、就活は個人の問題だと私も思っていたが、周りの支えは必要だ。私は説明会も一人で参加していたが、内定先のテレビ東京のエントリーシートを期限までに提出できたのは友達のおかげである。テレビ東京の技術職のエントリーシートの締め切りは、私が東京の友人宅に居候しながら「TV EXM」に参加していた時だった。やることに追われていたことや、一般職のエントリーシートがダメだったこともあり、もう出すの無理かも……。と言ったときに友人がエントリーシートを印刷してくれ、「頑張って書きなさい!」と言ってくれたのである。この言葉がなかったら私の内定はなかっただろう。費用面で支えてくれた家族にもとても感謝している。
 私が就職活動でアピールしたことは、前向きな心と、何事も挑戦するということだった。これからもこの心は大切にしたい。そしてテレビ局の志望動機である、私たちの生きる今を時代として残したいという目標に向け頑張っていきたい。いつかオリンピックに同行し、歴史的瞬間を残したい。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。