大学入学時の自分が、記者という道のスタートラインに立つ4年後を知ったら仰天するだろう。それくらい、新聞記者になりたいとは全く考えたことがなかった、というのが正直なところだ。逆にいえば、自分の志や価値観のひっくり返った、それだけ様々なことが起こった大学生活だったのかもしれない、と今になって感じてもいる。
自分の大学生活を一字で表すとしたら、一番相応しいのは「悩」となってしまうと思う(そうでなければ「酒」になってしまうかもしれない……)。田舎から上京してきての環境の変化、様々な背景を持つ友人たちとの出会い、「追い込み過ぎ」と周りに笑われるほど、とにかく色々なことに手を伸ばしては挫折しまくった体験。社会保障を学び、社会問題の現場を自分の目で見てきた中で初めて意識した現実。
その都度自分の視野の狭さを痛感し、考え込んでしまっていた。そうするうちに、何となく漠然と抱いていた「社会に貢献したい」という気持ちの内側から、「社会」って何なのだろう、自分は本当に世の中を分かっていたのだろうか、という疑問が生じてきた。
マスコミを目指す仲間との出会い
日々起こる事件や争いを、あらゆる視点から掘り下げたい。もしくは、何の出来事もない「日常」に隠された人々の喜びや苦悩を追ってみたい。大学2年の夏にはIT企業のインターンシップに参加したり、また公務員試験に向けて勉強したりと、全く一貫性のない行動をとって来た自分であったが、実際に企業にエントリーを行う頃、志望は記者一本になっていた。
そんなわけで、私が新聞記者という道を具体的に意識したのは3年の夏過ぎ。『マス読』の合格体験記などを読むと、小学生の頃からマスコミに入りたい、という夢を追い続けた先輩の話が載っていたりする。この厳しい時期、まして難関と言われるマスコミ就職に今更間に合うのかと、相当焦っていた。しかし、一方で周囲に記者志望の仲間が見当たらなかったうちは、ライバルがどのように対策を進めているのかも分からず、勉強のモチベーションもなかなか上がらない。
そこで、とりあえずマス読講座に参加してみたり、記者志望者向けのフォーラムに積極的に足を運んだりと、同じ志を持つ学生を探すことから始めることにした。結果的には、そうしてできた仲間との出会いが、無事に就職活動を終えることの出来た一番の要因になった。
まず、筆記試験に向けての対策が一人でしていた頃より格段に効果的だ。大学もそれぞれ異なる数人のグル?プでとにかく頻繁に集まり、時事問題を各々作成して解き合った(殆どの場合、自分は一番解けていなかった……)。競争意識と危機感から、新聞を名称やデータまで、より丁寧に読み込むようになった。
作文は、メンバーの誰かが考えたお題に沿って、本番と同じ分量、時間で一斉に書きあげ、批評し合う。同じテーマでも書き手によって切り口は全く異なる。その人の辿って来た人生が反映される文章を読めるというのは、単純にとても楽しい。そして、みんな自分の作文のことは棚に上げて、相手の作文への問題指摘に関してはすごく得意、ということもわかってくる(笑)。何度かは記者の方にも見てもらいながら、回数を重ねる中で、また時間配分や文章構成の感覚も少しずつ、確実に磨くことができたと思う。
そしてなによりも、モチベーションを高く維持できた、というのが大きい。ただの勉強会ではなく、互いの大学生活や関心のあるテーマなどについて語り合っていくなかで、彼らと一緒にジャーナリズムの世界に挑戦していきたいと強く思えた。その存在は、就職活動全般を通しての支えにもなった。
ちなみに、自分が一緒に勉強してきた仲間の中には、来年から同期となる人も、他紙のライバルになる人もいる。そういう仲間に出会えたこと自体、とても幸運だった。今後もこの縁を大事に切磋琢磨していきたい。
このようにして冬以降、我ながら存分に楽しみつつ順調に対策を進めてこられたと思うが、そのムードを一変したのがESを提出し終えた頃に発生した、3・11の東日本大震災だった。
テレビで繰り返される津波の映像。壊滅した街。その現場に即座に駆けつけ報じるのがジャーナリストだ、自分もそうしたい、と思う一方、連日の震災報道に心が折れかけ、目をそらしたくなったのも事実だ。崩壊した街並みの写真を大きく載せた新聞の一面を見るのも辛かった。茨城の家族とは3日間ほど連絡が取れなかったし、その後もライフラインが断絶して身動きの取れない状況だと聞いた。そんな中、平常を取り戻しつつある大都会で、就職活動を続けることは苦しくてたまらなかった。
何も出来ない自分に不甲斐なさを感じながら、現地で命をかけて闘う人々や、取材する記者の先輩方に思いをはせた。そして、地元に帰る交通手段もない中で、今の自分に出来ることは、早く家族に良い知らせを届けることだと言い聞かせた。歯を食いしばるようにして新聞を読み、テレビを観、そして作文を書きこんだ。あの頃が私にとっての正念場だった。
面接では震災に関する質問が
震災の影響もあって日程がずれることも少しあったが、いよいよ3月下旬から、新聞社の採用試験が続々と始まる。
4月初め、共同通信、朝日新聞の筆記試験。この日の時点でNHKと読売新聞を辞退することになったのだが、元々新聞社のみにしかESを出していない自分にとっては、いきなり最終決戦のような気分だった(実際には毎日新聞社や地方紙もエントリーしていたが、毎日新聞が5月に試験を延ばすなど、この2社のあとは大分間隔が開いていた)。
時事問題、作文ともに、勉強会の成果を出すことができたと思う。特に作文は、テーマは予想的中とはいかなかったものの、その頃には文字数や時間の配分が感覚として染みついていて、両社とも制限文字数ぴったりに書ききることが出来、それなりに手ごたえがあった。時事問題も、普段新聞を読んだりしている限り、そこまで難しいものという印象はなかった(が、朝日新聞の戦後史の常識問題や国語の問題にはひやりとした……)。
無事に筆記試験を通過すると、あまり日をおくことなくGDや面接となる。
今年の面接では、必ずと言っていいほど震災に関することを聞かれた。それだけ今回の出来事は、日本の歴史上でも例を見ない、そしてマスメディアの在り方自体をも問うてくるような大事件だった、ということだろう。
また、それとも関連して、ソーシャルメディアについても話題によく上った。例えば共同通信社のGDは「震災とメディア」というテーマだったが、ツイッターの果たした役割の話が中心になった。グループのメンバーは皆ツイッターを利用していたようで、かなり細かな機能の話が展開されていく。「面接官の人たち、話について来られるのかな?」とふと思ってしまった(←失礼かもしれませんが)。そこで、敢えて自分はツイッターを利用したことがない、という設定にして、質問役に回ったりしていた。
とはいえ、特に役割分担はなく、自由に発言し合う、という形で話していたので、GDのための対策は必要ないはずだと思うが……。
全体的には、とにかく丁寧に自分のことを知ろうとしてくれていた、というのが新聞社の面接の印象だ。震災以外は殆ど自分がESに記入したことについて掘り下げる質問で占められていた。だからこそ、あまり肩肘張って話す内容を準備するのではなく、あくまでも自然体で、互いに心地よいようなコミュニケーションをとろう、と心がけていた。
共同通信と朝日に内定、苦悩の末に決断
筆記試験を受けてわずか2週間後の14日、共同通信社の最終面接。朝9時ころに集合した自分たちの組は男4人。控室ですぐに打ち解け合うことができ、心強かった。
最後の勝負、と考えると緊張に押しつぶされていたかもしれないが、私自身は少し圧迫気味で面食らった2次面接などに比べれば、かなり落ち着いて臨むことが出来たと思う。筆記試験会場があれだけ多くの受験生で溢れていた中で、最終面接まで進んだライバルたち。もはや殆ど差はないはずだと思っていた。そして、自分も幸いにしてそのうちの一人に残してもらえている。それならば、ありがたい体験を存分に過ごそうという思いだった。
困ったのが面接の後だ。4人の面接は11時頃には終わっていたのだが、午後の健康診断が終わるまで、何も口にせずに控室で待機させられた。解放感もあって4人で大分羽目を外してしまったが、問題にならなかったことは幸いだった。2時過ぎ、ようやく解放されてから4人で食べたラーメンは、空腹と解放感も重なって最高においしかった。
帰宅後すぐ、電話が鳴った。何となく少し怖い印象を持っていた人事部長の方から、おどけた調子で「うちで働いてもらうから」と言って頂いた。言葉がつまる一方、涙があふれてきて、その時、改めて自分がどれほど記者になりたかったかを実感した。
16日。気持ちが共同通信に傾いている中で、朝日新聞の最終面接を受けた。
それまで、何度も面接を受ける中で、毎回後悔していたことがあった。「朝日と共同、どちらが本命?」といった質問に対してだ。入社意思確認のためなのだが、本当は決心がついていなかった。というよりも、記者になりたいという思いを実現できるなら、何処にだって頭を下げようしとか思っていなかった。しかし、その答えが万が一、合否に影響としたら、という恐怖感で、毎回都合のいい返事を繰り返してしまっていた。就活生は皆同じだ、そう答えるのは当たり前だとも言われそうだが、一生に何度とない、人生を決めかねない場で自分の本意と異なることを自身満々に話すのは、私には苦痛でたまらなかった。
最後だけは、そんな後悔を残したくない。面接の終盤、案の定の質問が来る。共同から内定を頂けたこと、現時点でどちらに行きたいか決心がつかず、合否に関わらず共同に行くかもしれないことを正直に打ち明けた。だだっ広い最終面接会場は異様な雰囲気に包まれ、ああこれは完全に終わったな、と確信した。
「時間を取らせてしまって申し訳ありません」。頭を思いっきり下げて退出。大恥をかいた、でもすっきりしたという奇妙な心境のまま、急ぎ足で築地を後にした。その夜、内定の旨を伝えられた時は、喜びよりも信じられない思いだった。
ここから2日間。両社に連絡を入れて、自分の人生を決める時間を頂いた。それこそ、大学生活の集大成のつもりで悩み抜いた。就活でお世話になった多くの人や友人、ゼミの先生、そして家族。色々な意見を聞いたが、最終的には自分の決心で、朝日新聞社にお世話になることを決めた。
徹底的に自己を問いなおす機会に
運に恵まれたとしか思えない自分に、就活に関して実践的なアドバイスを送ることなど到底できそうにないが、敢えていくつか提案してみたい。
やはり、仲間や頼れる先輩を見つけ、どんどん話をするに越したことはない。就活仲間の存在が私にとってどれだけ助けになったかは前述の通りだが、可能な限り多くの記者の先輩方にも近づき、話を聞いて回っていた。記者を志した動機。今追っているテーマ、夢。貴重な話の中に、自分と通奏するものが一つでも見つかればしめたもの。あらゆる情報が自分にとってのヒントになると思う。
モチベーションの維持につながる本を常に持ち歩くこともお勧めしたい。私は斎藤茂男さんという記者に憧れを持っているため、「日本の情景」シリーズなどの著書を日々就活鞄に持ち歩いて、暇さえあれば読んでいた。心が折れそうなとき、お気に入りのルポを読み直すだけで、不思議とやる気が出てきて助けられた(たとえ朝日であっても、憧れの記者を聞かれた時は当然彼の名を挙げていた)。
最後に、私の就職活動期を振り返って、最も満足しているのは、徹底的に自己を問いなおす機会にできたことだ。自分の人生において、仕事とは何なのか。誰に何をもたらす生き方をしたいのか。そして、それを仕事と出来るだけの覚悟はあるのか。今までの22年、これから数十年の未来を繋ぐ「今」の自分を最大限掘り下げられたこと、そこには「就活」なんて言葉では表せないほど大きな価値があった。
後輩の皆さんも、ぜひ自分の生き方そのものに出合う好機と捉えて、就職活動に臨んでほしい。その先にマスコミ就職という道が見えたなら、後は突き進むだけ。夢や理想を恥ずかしげもなく語り合える良い仲間と出会い、充実の日々を送られることを祈っています。