12歳の冬色紙に書いたマスコミへの夢

O君/NHK、朝日新聞社内定


 小学校卒業を控えた12歳の冬、私は色紙に自身の手形を取り、その傍らに将来の夢を書いた。
「マスコミの仕事につきたい」
 今思えば、その非常にぼんやりとした「夢」はいつの日も私の心の中にあり、10年という月日を経て、私はそのスタートラインに立っている。
 私の人生において、最も大きな影響を与えたのが、サッカーとの出会いだ。Jリーグ開幕、ドーハの悲劇、フランスW杯、日韓W杯など、サッカーによって日本中が熱狂する姿は鮮烈な記憶として残っている。子供時代に肌で感じた熱狂、感動を、自分も多くの人に伝えたいその想いが、マスコミ、特にスポーツ報道の仕事を志すきっかけだった。
 大学入学後は新聞部に所属し、大学スポーツの取材に明け暮れた。と書くといかにも「マスコミ就職」を第一に考えて大学生活を送っていたようだが、実際のところ、そんなことはない。むしろ、マスコミ就職のことは極力考えないようにしていた。言わずもがなだが、大手マスコミは狭き門。そこを自分が突破する自信などなく、長年抱えてきた夢が叶わない日のことを考えるのが怖かった。
 加えて、仮にマスコミの仕事についたとして、そこで待っているのは業界全体を覆う不況。ワークライフバランスも考えれば、自分の人生には、もっと違う選択肢もあり得るのでは……。正直、「マスコミ就職」の夢は揺らいでいた。
 それでも結局マスコミ志望を貫いたのは、それが「夢だから」の一言に尽きる。いくら理性で「俺には無理だ、やめよう、諦めよう」と考えても、10年見続けた夢から逃げることは、やはりできないものだ。就活スタートを前に、12歳の冬に夢を書いた色紙を押し入れから探し出し、壁に貼り付けた。これでもう、腹をくくった。

 緒戦でいきなりES落ちの連続

 そんなこんなで3年の夏である。就活モードにスイッチを入れる意味も込めて、マスコミに限らず様々な企業のインターンに応募(合格したのは一般企業ばかりだったが)。
 そして10月、日本テレビからいよいよマスコミ就職戦線に突入した。苦心して作成した初めてのESはなんとか通過するも、思わぬところに落とし穴が……。こともあろうに、面接前日に39度の高熱を出すという大失態を冒してしまう。結局当日も熱は下がらず、朦朧とする意識の中、何を話しているのかもわからぬまま撃沈。人事部長の眼光の鋭さくらいしか、当日の記憶もない。まさに、就活の厳しい洗礼を受けた瞬間だった。
 とはいえ、「結果に一喜一憂しない!」、「体調管理は大切!」などの教訓を身にしみて感じたのは収穫。ひとまず気持ちを切り替え、マスコミ各社の説明会に参加したり、ESに書くネタの骨格作りをしているうちに、あっという間に新年を迎えた。
 1月は出版社とキー局のESラッシュ、そしてテスト勉強に追われる日々。そして2月、さあいよいよマスコミ各社の選考が本格スタート!と思ったら、いきなりのES落ちラッシュ到来である。テレ東、フジ、テレ朝、集英社でまさかの4連敗……。さすがに、この時は精神的ダメージが大きく、一人カラオケでミスチルを熱唱しながら悔し涙を流した。
 しかし、マスコミ就活戦線に凹んでいる余裕などない。ひとまず超氷河期に「無い内定」にならないための保険として一般企業の説明会やOB訪問をこなしつつ、2月はNHKと新聞社のES、3月はキー局の関連会社やIT企業などでの面接(練習)に多くの時間を費やし、来たる「4月決戦」に向けて準備を進めていた。
 そんな中、出版社の中で生き残った講談社と角川書店の選考も始まっていた。日々ESに追われていたことを言い訳に筆記対策をろくにやってこなかった自分にとって、両社の筆記試験はもはやあきらめムードであったが、元々ミーハーでサブカルや時事問題に関するインプットがあったことが功を奏し、なんとか突破(講談社の三題噺は指定字数の6割ほどしか書けなかったが……)。30日の講談社の1次面接も勢いに乗って通過した。ここではESに沿った質問が主で、鋭〜い質問が来ると思っていた私はちょっと拍子抜け。そもそも、講談社において私はコミックでも週刊誌でもなく、スポーツ雑誌の編集志望だったので、面接官の方も私をどう料理するか試行錯誤していたのかもしれないが。

 内定を一つ獲得して「攻め」に転じる

 そうして、いよいよ私にとって忘れられない1カ月が始まった。
 4月1週目は、多くの就活生同様、一般企業の面接も含め、手帳に書ききれないくらい予定がびっちり。綱渡り的なスケジュールにビビりながらも、2日の夕方、NHKの1次面接に臨む。
 書くのが遅れたが、このNHKのディレクター職が一貫して私の第一志望だった。スポーツの中継だけでなく、「スポーツ大陸」や「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」のような「人」に密着したドキュメンタリー番組を通して、見た人に人生のヒントや、頑張るモチベーションを届けたい。月並みな理由だが、私が今後の人生40年をかけて取り組みたい仕事は、まさにそんな仕事だった。
 受付後に通された正面玄関の待合スペースのすぐ脇で、「すいエんサー」の撮影をしていて面食らったが、逆に緊張がほぐれるきっかけになった。その後の面接は、予想以上に和やかなムード。オススメの小説を聞かれ、伊坂幸太郎の作品を答えてしまう自分のミーハーさにはがっかりだったが、しっかり手ごたえは感じた。
 その夜、3月に受けていたジュピターテレコムからの内々定が出て、ひとまず「無い内定」回避に一安心。今振り返ると、この日を境に私は大きく変化したように思う。それまでは「無い内定」を恐れるあまり委縮し、どこか「守り」の就活をしてしまっていた。しかし、ひとまず最悪のパターンを回避したことで心理的に余裕ができ、思い切って「攻め」の就活ができるようになったのだ。当時の自分を客観的に見るのは難しいが、おそらくこの日以降の私は、それまでとは比べ物にならないくらい、自信と余裕を持って面接に臨めていたように思う。
 この段階で、マスコミ以外の企業は、インターンやOB訪問でお世話になった数社だけを残し、ほぼ辞退。あとは残るNHK、新聞、出版各社に全精力を傾けることを決意した。
 翌3日は、午後に日経の筆記、そして朝日の1次面接であった。移動時間を考えると片方しか行けない状況の中、ギリギリまで悩んだが、結局朝日に行くことに。日経購読者の私にとって、日経のサッカー記事担当の阿刀田記者は憧れであったのだが、やはり単純に朝日の方がスポーツに携われる可能性が高いと思ったからだ。

 NHK、朝日新聞社とも論作文はサッカーネタ

 そして4日、マスコミ就職を目指すものにとっての鬼門となる日だ。まずは朝8時半からNHKの筆記。続いて午後は朝日の筆記だ。午後の朝日と読売は直前までどちらに行くか迷っていたものの、よく考えると自分は巨人に関するもの以外で読売の記事をまともに読んだことがないことに気付き、やはり朝日へ。
 白状すると、実はこの日の筆記の対策も、ろくにやっていなかった。前日に『新聞ダイジェスト』の問題集を斜め読みした程度、というのが正直な話だ。とはいえ、さほど筆記に不安を感じてなかった、というのも事実だ。こんなことを書くと「就活なめるな!」と言われそうだが、特に肩肘張って対策をしなくても、日々のニュースをしっかりチェックする習慣があれば、難関といわれるマスコミの筆記も突破できるはず。
 また、私は作文試験において、与えられた課題と自分の得意な分野(サッカー)を結びつけることを意識していた。その結果書いた作文は、NHKは「本田圭佑」、朝日は「FCバルセロナ」についてのもの。もはやただの「サッカーバカ」だが、後の面接でも作文の話は思いのほか好感触であった。割とざっくりとしたテーマが与えられる作文試験においては、いかに論理的に破綻させずに、自分の土俵の上で作文を書くか、これが重要であるように思う。突拍子もないテーマになるかもしれないが、それも個性というもの。言いかえれば、時事問題ではミーハーに、作文試験ではオタクになることが私の筆記必勝法だったと言えるのかもしれない。
 8日、この日は講談社の2次。拍子抜けした1次から一転、デスククラスからの矢継ぎ早の質問にてんやわんやしながら、なんとか乗り切る。「君と本田圭佑に共通する強みって何?」という質問が最も印象的だった。内心「ねぇよ」と思いつつ「強い意志と精神力です!」と答える自分……。今思うと恐れ多い、そして恥ずかしい。
 9日は朝日の2次。朝から夕方まで1日かかる選考で、とにかく「疲れた」の一言に尽きる。特に模擬取材は時間との戦い。私は大学のジャーナリズムの講義で似たような模擬取材の経験があったが、制限時間ぎりぎりまで記事が書き終わらず相当焦った。

 角川書店は大半がガンダムとエヴァの話

 翌10日は、まずNHKの2次。定番の「ニュースウォッチ9でやりたい企画」の質問では会心のサッカー企画をぶちあげるも、企画のねらい、ターゲットの視聴者層などかなり突っ込まれた。そして午後は角川の1次面接……だったのだが、20分の面接時間中、15分はガンダムの話だった。さすが角川。
 14日には朝日の3次面接。いかにも「圧迫」な雰囲気を演出されたもののなんとか突破し、16日にいよいよ朝日の最終を迎えた。
 本来は面接後に健康診断というスケジュールだったのだが、時間の都合で私は健康診断から先にやることになった。最終を前に緊張している上、「注射嫌い」の私にとって拷問とも言える採血で半泣きになり、精神的にも肉体的にも既にへロヘロに(笑)。面接が和やかだったのがせめてもの救いで、W杯に臨む日本代表への熱い想いをぶちまけたり、「君はなんでそんなにハキハキしてるの?」というお褒め(?)の言葉に混乱しながらも面接終了。その夜に内々定の電話を頂いた。
 ちなみに、この日の午前が講談社の3次で、あっさり散った。「君は雑誌が売れるためにAKBのパンチラ撮る覚悟ある?」という質問は、おそらく一生忘れない。
 翌17日は角川の2次面接……だったのだが、20分の面接時間中、15分はガンダムの話、そしてエヴァの話だった。さすが角川。もはやガンダムの話だけで内定をもらえそうな気すらしたが、4日後の最終ではガンダムの話は一切出ずに散った……。今思い返せば、私の出版業界に対する想いがまだまだ甘かったという一言に尽きる。それでも、社長にお会いして自分の考えをぶつけるチャンスをくれた角川書店には感謝したい。

 NHKの面接直前、向井理さんが目の前に!

 そして19日はNHKの2・5次。ここまで順調に来ていたNHKの選考だったが、この日のGD(グループ・ディスカッション)は終始手ごたえがなかった。さほど効果的な発言もできず、「ここまでか……」という焦りと諦念が頭をよぎる。GDを終え、沈みがちに面接を待つ最中、なんと俳優の向井理さんが目の前を通り過ぎた。その距離僅か2メートル! 「ゲゲゲの女房」視聴者の私はひとりテンション急上昇だったが、意外にみんな緊張していたのか他の学生は向井さんに全く気が付いていなかった。ここはポジティブに「向井さんに気付くだけ、俺にはまだ精神的に余裕がある!」と考え、とにかく面接ではNHKへの熱意をぶつけた。
 向井さん効果か否かは定かではないが、苦しみながらも2・5次を突破し、迎えた4月24日、ついにNHKの最終面接もたどり着いた。すでにNHKがダメだったら朝日に行くと心に決めており、どちらに転んでも、この日で就活終了。そう思うと、原宿駅からNHKまでの道程も感慨深かった。
 役員フロアの荘厳な雰囲気の中、自分を含め学生たちの表情は明らかに固かった。しかし、「私は君たちを採用したいと思っている。今日判断するのは役員だけど、ありのままの自分を出し切れば大丈夫」という人事の方の激励に、言葉では言い表せないほどの勇気をもらった。
 面接で話したことは、志望動機、自己PR、やりたい仕事など、定番の質問が中心。就活を通して、何十回、何百回と考え、文字に起こし、声に出し、その都度洗練させてきた言葉は、確かに「ありのままの自分」を表していたと思う。帰り道に代々木公園から見上げた快晴の空同様、私の心は晴れやかだった。と、少々カッコつけすぎたが、兎にも角にも、就活を終えた解放感、そして達成感は計り知れないものだった。そうして2日後、ゼミの最中に電話が鳴る。第一志望、NHKのディレクター職として内々定を頂くという最高の結果で、私の就活は幕を閉じた。

 就活は、運とか、縁とか、アツい気持ちのような、ものすごくおぼろげなものが一番の決め手になったりする。自分の就活を振り返っても、はっきり言葉にできないくらい、その決め手はおぼろげだ。それでも、とにかく無我夢中で、ランニングハイ状態で走り抜け、なんとか第一志望から内定を頂くことができた。
 ここまで偉そうなことを書いてきたが、私はやっと「夢」のスタートラインに立っただけ。多くの人の心を打つ番組を作るという、就活の何万倍も苦しく、辛く、そしてやりがいのある仕事のために、また無我夢中で、夢に向かって走るだけだ。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。