「生きてるってかったるい」と思っていた子どもの頃、唯一、熱中出来るのが読書だった。早乙女勝元『東京大空襲』、吉岡忍『墜落の夏』などのルポに衝撃を受けた。そのうちに、読むだけではなく、自分で様々な現場を経験して、書く側に回りたい、という思いが強くなり、9歳の頃には「将来の夢・記者」と言っていた。
そんな思いが原点で、大学時代はいつも動き回っていた。遊牧民に憧れて中央アジアを訪れたり、わざわざ資格を取ってバスツアーの添乗員をしたり、店頭に立ってホルモン焼きを焼いたりもした。そのなかで、自分は未知の何かを追いかているとき、最も興奮や充実感を得られると気付き、やはり記者になりたいと再確認した。大学3年9月のことだった。
その時点で、所属していたサークルやバイトを全て辞め、就職活動に専念することにした。就活は、テレビ、出版、新聞各社と、「記者職」がある会社全てと、興味を持てた一般企業の計30社を受けた。一番なりたいのは新聞記者だった。
昔から実家で朝日新聞と日経新聞を取っていて、新聞を読む時間が小学生の頃から毎日の楽しみだった。子ども心に、朝刊が面白いのは朝日、夕刊が面白いのは日経、と感じていて、「いつかこの紙面の、の欄を自分が書いてやる」と考えていた。そんなわけで第一志望は朝日と日経だった。
「何がしたいのか分からない」日テレは3次で落選
すでに10月。すぐに日本テレビのES締切があり、選考が始まった。各社の夏のインターンに申し込みさえしなかった私は、ESを書くのも面接を受けるのも全く初めてだった。
11月11日、日テレ1次面接。時間は5分。ノリで押し通す。草原で馬を逃がしてしまった話をしたら、面接官は爆笑。通過。その後、ポンポンと25分間の3次面接まで進む。通れば最終の手前、合宿選考。しかし本番はここからだった。勢い込んで自分の各体験談を語るが、面接官はすごいねえとニコニコ聞いているばかり。話が核心に触れずもどかしいなか、「ウチで何がしたいのかが分からない」と言われ、落選。その言葉がその後の課題になった。
日テレ受験の間に、12月になった。この間、TBSのES落ちを反省し、まず自己PRと志望動機の原型を作ろうと、3つほど雛型を作り、何度も書き直した。「文章が小難しい」「単なる経験の説明になっている」「お前ならではの強みが出ていない」など、友人に指摘された点を直そうとしても、どう書くのが「正解」なのかが分からず、何にでも頼った。
マニュアル本の合格ES実例を読みあさり、共通点は何だと必死に考え、先輩を深夜に叩き起したり、就活塾の先生に泣きついてみても答えが分からず、風呂場で朝方までくやし泣きをしたりした。ちなみに塾には一応5月頃から入っていたものの、気が向いた時に作文を書いてフラッと行く程度で、真剣に通おうと思ったのは10月から。塾生と仲良くなっていろいろ相談し合うようになったのは年が明けた頃だった。それからは、そこでの授業・友人は、自分にとってなくてはならない存在になった。
1月は、各社説明会に行きながら、テレビ局のESを練ることで、何とか自己PRと志望動機完成させようとあがいた。といっても、私は説明会やOB訪問は、実際はそれほど行かなかった。実際に自分が希望する仕事をしている人を、くやしくて正視できないような気がしたからだ。そしてアホなことに教習所の期限が迫っていたため、就活をしながら車の練習をするという状況に陥っていた。
2月はテレビ局を受けながら、出版社のESを書き、面接の練習のためベンチャーや中小企業も受けた。ESの原型稿は、いまだに完成していなかった。私はどうしても社によって書く内容を大幅に変えないと気が済まなかったので、締切当日の朝まで都心のネッカフェで粘り、その会社の管轄の郵便局に直で持っていくといったことの繰り返しだった。
郵便局でESを書く大勢の就活生
2月9日、集英社ES締切。この日見たのは、当日消印が付く締切23時59分に間に合わせようと、24時間営業の郵便局で必死にESを書く、大量の就活生の姿だった。そんな場面に遭遇したのは初めてだった。それで最後というわけにはいかなかったが。
そこからテレビ朝日、フジテレビ、テレビ東京、毎日放送と、受けては1次か2次ですぐ落ちる、という不遇の時期が続く。今思えば、私は「個性的な自分」を演出しすぎ、空回りしていた。面白い話をすれば、笑いは取れるが、面接官が本当に聞きたいのは、あくまで自社で何がしたいのか、受験者自身の強みは何で、それを自社の仕事でどう生かせるかなのだ。そんな一番大切な「相手の視点」が欠落している頃だった。
唯一進んだ関西テレビの2次面接で大阪まで行き、社のキャラクターについての質問、番組の特徴といったことがサッパリ答えられず、落選を確信し(実際、不合格)、すぐ東京に日帰りした時は、いったい自分は何をしているんだろうと心底疲れた。
知らないことは素直にそう言うべきと痛感した。東京育ちの私は、関テレのことなど一切知らないが、唯一「天のゆりかご」という遊牧民を追ったドキュメンタリーに感動し、受験していた。それを、「追跡報道が特色」など、聞きかじったことを言ってしまう自分が嫌だった。この後悔から、自分に嘘をつかない面接をしよう、それでダメなら仕方がないと思うようになった。
3月に入ると、出版社筆記、本命の新聞各社ES提出が始まる。幅広い知識が要求される出版の筆記は力試しになる。しかも、「ちびまる子ちゃん」の英訳版が出題された集英社や便せんに作文を書く新潮社など、ユニークで受けるのが楽しかった
また、東洋経済などの経済系出版社の筆記(2月末)は、形式や難度が新聞社に近いということだったので、そこに焦点を当てて1週間ほど、それまでほとんどしていなかった時事の勉強をした。『新聞ダイジェスト』の巻末問題8カ月分を解きまくった。ギリギリ時間が取れるこの期間に、それをしておいて良かった、と後でつくづく感じた。筆記の勉強は、10月頃までに一般教養の問題集は1回まわし、作文は8月に書き始め、10月から2月は真面目に週1本書いていた。しかし時事は、2月までほとんど手つかずだったので、必死に詰め込んだ。
3月3週目。ESに追いまくれ、面接でも思うように喋れず、筆記の勉強の時間は取れず、とにかくイライラする日が続いて、精神安定が悪かったので、思い切って5日ほど完全に休んで遊んだ。映画を観て、神保町で美味しい珈琲を飲んだり、池袋の某テーマパークに行ったりした。3月中にマスコミ以外でもどこか内定を頂くことを目標にしていたが、諦めた。今年は不況で、周囲にも3月中に内定を持っている人はほとんどいなかった。
3月25日、共同通信1次面接。初めての本当の第一志望群の面接だ。面接官はESに興味を示し、こちらも記者への思いが素直に口から溢れてきた。「記者、イケルんじゃ……」と感じた。
NHKの待合室で ちょ、腸もみ……?
4月に入り、本命マスコミの選考が本格化、その合間に商社など一般企業を受けていた。この間の面接は、次々に即日通過の連絡を頂いた。
なかでも印象的だったのは、4月2日の講談社1次面接だ。面接官は私が志望していた「週刊誌」とは違う部署の方にも関わらず、じっくりESを見て、話を引き出そうとして下さる姿勢を、どこの社よりも感じた。
「媒体は何であれ、活字を通して一番伝えたいことは何?」という質問に対して、とっさにだったが、「過酷な状況で生き抜いている人間のズルたくましさです」と答えていた。ああ、自分はそんなことを考えていたのか……と思わされた良い面接だった。
4月4日の日経新聞筆記、4月5日午前、NHK筆記、午後、朝日新聞筆記、例年のことだが、4月の第1週の土日は、報道志望者の正念場だ。日経の作文は、例年の「著名人への手紙」形式ではなく、普通の作文になっていた。私は手紙や論文より、作文が得意だったので、大喜びで書いた。
調子が狂ったのは4月7日、NHKの1次面接だった。待合室から心乱されることが起きた。「皆さん、緊張をほぐすために腸もみをしましょう。」と言う人事担当者。
ちょ、腸もみ……? 正直、余計なお世話だと思ったが、好意だし、少ない人数の中、しないわけにもいかない。これをすると、便通が良くなるといった話を、何をしに来たんだと思いながら聞き、少し気分を乱されながら、面接へ。
面接官との話は、どうにも噛み合わなかった。「君はすぐに気持ちが高まるタイプね?」などと言われ、すぐ評価票に書き込まれる始末。NHKの志望度は高かったが、相性が合わなかったように思う。
そして同日夜、朝日新聞の筆記結果発表。それまで一度も筆記で落ちたことはない。難しい通ってきた。さあこれからだ、と軽い気持ちでパソコンを開いた。
「残念ながら――」という文字が目に入った。冗談ではなく、視界がまわって床に倒れこみそうだった。「落ちたのか、本当に落ちたのか」第一志望のひとつがこれで終わってしまったのだと思うと嗚咽が込み上げてきた。チクショー、チクショー!と叫びながら、床を転げまわった。
朝日の1次面接は手ごたえがあった。それまで筆記では一度も落ちたことはなかったから、まさか1次で落ちるとは思ってもいなかった。その慢心があだになった。
翌日は日経の1次面接だった。落ち着け。日経に受かればいいじゃないか。と自分に言い聞かせても、10年来の思いがこんなところで終わってしまったらどうしようと、不安で不安で涙が止まらなかった。
涙をためながら日経新聞の面接
4月8日午後、日経新社屋の場所がよく分からず、着いた時には説明が始まっていた。
1次では、まだまだ部屋いっぱいの受験者がいた。皆キリッとした顔でその日の日経をチェックし、5日のNHKと朝日の筆記に通って、さあこれからだという会話をしている。5日の両方に落ちた自分は適性がないのかと惨めだった。
すぐ名前が呼ばれ、部屋に入ると、穏やかだが目つきの鋭い面接官が3人いた。
「それじゃ、記者になりたい理由からどうぞ」
朝日に落ちたショック、あとは日経しかないという不安から、恥ずかしいほどにしどろもどろだった。会話も全く盛り上がらない。2人はもううんざりという顔をし、忍耐強く話を引き出そうとしてくれていた最後の1人まで、貧乏ゆすりを始めてしまった。
「はい、じゃあ最後に一言ありますか――」
ここが本当に勝負だと思った。ここでしっかりと「自分」を説明しないと。そう思い、噴き出す涙をこらえながら、腹から大声を出した。
「私の強みは、どこにでも入り込んでいくバイタリティです。今は……今は、こんなふうに泣いていますが、それでも、たとえ泣きながらでも、私は絶対にこうと決めたものには食らいついて離れません。このネタを取って来いと言われれば、絶対に取るまで戻りません!」
面接官が3人ともドッと笑った。そこでようやく初めて、「ほう」という顔をして、1人の面接官がまともに私を見た。その面接官はしばらく私を見た後、ポツリと「緊張……し過ぎないようにネ」と言葉をかけて下さった。それで1次面接が終わった。
悔しかった。この10分間に十数年分の思いをぶつけなければいけなかったのに、全く自分の感情をコントロール出来なかった。それでも、こんな悔いが残る形で、自分の長年の第一志望を終わらせてしまうのは絶対に嫌だった。私はこれほど記者になりたくて、この仕事にこそ自分の人生を賭けたいと思っている。それをどうしても伝えたい。
そう思った私は、ノートを一枚破り、そこに自分の思いを書き付けた。稚拙な文章だっただろうし、もう涙でぐちゃぐちゃだった。こんなことをしている自分はみっともない、あり得ないことをしている、と分かっていた。それでもどうしても伝えたい。ダメで元々なら、今この瞬間の行動に賭けてみようと思い、「お願いです。先程の面接官の方に渡して下さい」と人事担当の方にその紙を渡した。その人は驚き、呆れていた。それでも、「選考結果には反映出来ないと思いますが、分かりました」と受け取って下さった。
その後も選考は、新潮社1次面接、北海道新聞筆記、角川書店1次面接、毎日新聞筆記と続いていた。まだ内定には程遠い段階だ。そんななか希望を与えてくれたのは、並行して受けていた総合商社の丸紅から、最終選考に呼ばれたことだった。元々私は、無から有を生み出す、あまり人が行かない海外の土地で仕事を創り出す、という点から、商社には魅力を感じており、志望度もそれなりに高かった。
「よし分かった、日経か丸紅に行くぞ」そう思って、気合いを入れた。
日経最終面接はキャラ全開で…
4月15日、日経新聞2次選考。ここでは、面接と模擬記者会見が行なわれる。記者会見発表を元に、原稿を書くというもので、メモが取れるようにゆっくり読み上げてもらえる。発表記事の一体どこで差が付くのだろうと考えながら、リード文と最後のまとめに、記事の主役となる人の人間味が滲むよう多少は意識して書いた。2次では、1次とはうってかわって、ハキハキと、和やかに会話が出来たように思う。「君、文章がこなれてる。何か書く活動をしていたの?」などと、文章を褒めて頂けたことに、自信が付いた。
4月18日、日経新聞最終。役員4人+人事2人と1次と2次の面接官各1人ずつの計8人対受験者1人の面接だ。ここまで来れば、キャラ全開でいくしかない。「よろしくお願いします!」大声の挨拶。すると視界の左側に1次面接の面接官の一人が、満面の笑みでいるのが見えた。「見ていて下さい」心の中で目礼し、面接に臨んだ。最終は、役員から交互に質問を受けた。「君ぃ、ホルモン焼きはどこの店に行くんだい?」「ハイ……」。
最終面接は、従順にした方が良いという助言も受けていた。けれど、初めからどうしようもない自分を全てさらけ出すことになった会社だからこそ、野宿、遊牧民、ホルモン焼きなど、どれほどムチャクチャでも自分がエネルギーを注いでしてきたこと全部を話し切って終わりにしたかった。15分はあっという間に過ぎた。ハッキリ言って、役員は大いに呆れ、人事部長が顔をしかめていた。しかしスッキリした気持ちで、社を後にした。
4月19日、時事通信筆記。共同は辞退したため、初めての通信社の筆記。新聞社とは違う、英文和訳・和文英訳のボリュームに驚く。もし日経がダメだったら、また全社1次面接からか……と思い、憂鬱な気分で帰る。
4月20日、4月に入って、ようやく初めて大学に顔を出した。今日来るはずの電話はまだ鳴らない。同じ状況の友人と電話が来たか確認し合い、ダメな場合の覚悟も決め始める。
午後2時頃。電話が鳴った。電車に乗っていたので、小さな声でしか話せなかった。そのせいか、あっけなく感じた。喜びは込み上げてきた。けれど反面、さあこれからが本当に大変だ、と、頭は結構冷静に、来春の就職後のことを考え始めていた。
それから、家族や友人先に報告をし、筆記を通過していた道新、毎日、時事に辞退の連絡をした。
最後の最後は熱意と意地だ
私は決して真面目な就活生ではなく、「就活なんて茶番だ」という思いが、常に頭のどこかにあった。けれど最後の最後は、自分の本心からわき出て来る熱意と意地だった。内定後ようやく始めたOB訪問で、一人の年配の社員の方から「日経は硬い会社と見られがちだが、ちょっと前までは、意見が合わない者同士が、椅子をぶつけ合って(!)喧嘩をするような、血気盛んな職場で、今もその気風は残っている」と伺ったのが印象的だった。
自分の中にある、激しい感情、エネルギーの塊のようなものを持て余し、時にそれに振り回されてきた自分にとって、それを生かせるかもしれない仕事、会社に採用して頂けたことは、本当にありがたいことだと思った。
さらに日経で良かったと思うのは、自分がこれまで知らなかったビジネス・業界や物の見方、社会の仕組みを知ることが出来そうな会社だということだ。新興国の産業取材、運輸関係の事故原因の追及、あるいは日経初の潜入紀行風ルポの連載、そして何よりスクープ。これらを絶対に順次達成するぞと、10年後の自分に誓い、この体験記を終わることにす
【最後にアドバイス】
◎志望者同士で、面接をし合うとためになります。自分が面接官側になってみると、「あ、コイツうちの新聞読んでねえな」など、いろいろなことを感じるものです。逆に志望者同士で筆記の問題を作り合うのは楽しいのですが、効用はあまりない気がしました。一人で黙々やるのでも良いのでは?
◎ESは締切当日にドバッと来るため、相対的にあまり読まれず通りにくいという噂(?)があります。確かに締切当日に来るESは多いでしょうが、少なくともいつも締切当日だった私のESは、通らないということはありませんでした。
◎自分が志望する会社の発
皆様の健闘を祈っております。