理系で院生の私が「記者」になるまで
F君/東北大学 中日新聞、福井新聞内定

  理系の大学院で太陽電池の研究をしているというF君がなぜ新聞記者を志望したのか。
  そしてどうやって見事に記者の内定を獲得したのか。
  「艱難辛苦汝を玉にす」が就活中の座右の銘だった。



理系で院生ながら記者を志したきっかけ

 私は理系の大学院生だ。大学では太陽電池の研究をしている。周りの同級生はメーカーの研究者になっている。そんな私が就職活動で目指した職業は「記者」だった。そのような道を歩もうと考えた原点は、私の大学生活にある。

 映画「アルマゲドン」の管制塔でのシーンに憧れた私は、天文学を学ぼうと大学に入学した。しかし、のめり込んだものは「祭り」だった。町の人が熱い想いを注いでいる特別な日。町が一つになり盛り上がる日。そんな祭りと、町を盛り上げようとがんばって輝いている人に惚れていった。

 自ら町を盛り上げる企画も実行した。子供が飽きてしまったおもちゃが押し入れに眠っていないだろうか。そんなおもちゃをリユースする「かえっこ」というイベントを開催した。こんな大学生活を通して、町を盛り上げる楽しさを感じていった。

 学校で学んだことを生かして研究者になろうか、レールから逸脱して「町を盛り上げる」職業に就こうか、私の就職活動はこの葛藤と対決する自己分析から始まった。すぐに決断は出来なかったが、悩みながらも行動することが大事だと考え、様々なイベントに参加した。

 11月中旬、朝日マスコミ就職セミナーというイベントに参加した。朝日新聞社、テレビ朝日、電通の社員さんと、マスコミ業界の内定者の方たちが参加するイベントだった。

 終了後、そのまま帰ろうと思ったが、何か物足りなかったので引き返した。すると、司会をやっていた社員の方が、「あぁ! 仙台から来た人だ! 遠いところからよく来てくれたね」と声をかけてくれた。どうやら質問をしたときに顔を覚えてくれたらしい。

 聞きたいことがあれば素直に質問するべきだ。そこから新しい縁が生まれる。イベントに参加したら、必ず縁を作って帰ろうと決めた。その後、内定者の方とも話すことができた。記者という仕事は、人に直接話を聞いて、記事を書き、声を伝えることができる。町を盛り上げたり、縁を作ったりできるすばらしい仕事だと、あらためて実感した。何より、内定者の方と話し、たくさんの元気や勇気をもらった。理系の道を逸脱してでも記者になりたい! と決心した。


現役の記者の方との出会い

 プロ野球に新規参入した楽天野球団に、GMを務めるマーティー・キーナートさんという方がいる。彼が大学を盛り上げるために特任教授として招かれた。学生からの意見を待っているという話を聞いたので、自分の考えを提案しようと彼の授業を訪ねたときの話である。今年で東北大学は100周年ということで、読売新聞社の女性の記者の方が彼を取材しにきていた。ここで出会ったのも何かの縁ということで、話しかけたら、逆に取材されていた。正月の新聞に載せる特集記事を書いていて、自分の記事が載るかもしれないということだ。

 私はこの縁を大切にしようと思い、記者を志していることを告げ、話をさせていただいた。記者という仕事は、信念を持っていないときつい仕事だと言っていた。「人と人を結びつけて、町を盛り上げたい」という自分の想いを話すと、彼女もそれがこの仕事の魅力だと思うと話してくれた。縁は、いつどこで生まれるかわからない。数週間後、大学を盛り上げる学生として、自分の記事が元旦の新聞に載った。

 1月中旬、「マス読ライブ」に参加した。講演者の人たちもおもしろかったが、影響を受けたのは、直接話した内定者の方だった。その人は、知り合いになった記者の方に、作文を添削してもらったのがためになったと言っていた。そうだ! 自分にも知り合いの記者の方がいるではないか! 添削をお願いしてみようと心に決めた。

 1月は、毎週のように説明会やセミナーに出席するために、東京に向かった。仙台から東京まで高速バスの時間は約6時間かかる。普通の人はこの6時間が退屈でしょうがないだろう。しかし、私はノートとペンを両手に持ち、人目もはばからず自己分析とESの推敲を重ねた。民放キー局のESの締切まであとわずか。毎回心のこもったESを仕上げ、できるだけ多くの人に見てもらった。自分が最高だと思っていても、客観的に見るとまだまだ良くなるものだ。ESは包丁のようだと感じた。毎日研いで研いで、少しずつ切れ味のいい道具にしていく。


初面接は心臓がバクバク

 いよいよ民放キー局の選考が始まる2月が訪れた。研いで研いで、磨きに磨いたESは無事に全て通過した。記念すべき初面接は、テレビ朝日となった。ある程度大舞台を経験している私は大丈夫だろうと思っていたが、初面接は心臓がバクバクした。

 結果……敗退した。落ちた理由を分析した結果、いくらマスコミ業界の面接とはいえ、目立てばいいという訳ではないということだ。ましてや報道であれば落ち着いた説得力のある人材が欲しいはずだ。私は、失敗のままで終わらせてはいけないと思い、次の面接に活かさねばと考えた。

 そこで始めたのが、面接の様子を事細かく書いた「面接ライブノート」と、質問に対して一言で答えるための「面接対策ノート」だった。その【る】か い【/】甲斐【び】あってか、TBSの面接では局長面接まで進むことができた。民放キー局に入れず残念だが、社会人として必要なコミュニケーション能力について、直接学んだ気がした。それは、質問を的確に把握し、対応した答えを答えること。最初に一番言いたいことを一言で述べること。チームに貢献する姿勢の大切さ。当たり前に聞こえるかもしれないが、意外と難しい。やってみればわかる。

 4月からは、いよいよ本命のNHKと大手新聞社の選考が始まる。いくら面接に自信があっても、筆記試験を通過しなければ、スタートラインにも立てない。過去問や『新聞ダイジェスト』の後ろの問題を見て【る】がく ぜん【/】愕然【び】とした。難しすぎる! 何から手をつけていいのかわからなかった。しかし、やるしかない! 私は筆記対策用の本を1冊買い、読みまくった。やりまくった。こんなに本気になったのは浪人のときの大学受験以来だろうか。今がんばらなくていつがんばるんだという気持ちで、やりまくった。1日13時間はやった(おそらくもっと努力してる人もいるだろうが……)。高速バスの中、18切符での電車の中、いろんなところで脇目も振らずやった。最初は全く分からなかったが、勉強している内に政治の流れが、世の中の流れが見えてきた。今この文章を読んでいる、筆記対策を何から始めていいか分からない人は、まず一歩を踏み出してみることだ。


いざ出陣! NHKと朝日を受験

 4月1日。この日はNHK、朝日新聞社、日経新聞社など様々な企業で筆記試験が実施される。私は、午前中にNHK、午後に朝日新聞社を受験する予定で、前日にそれぞれの受験会場を下見した。筆記試験を受けている自分を強くイメージしながらキャンパスの中を散歩した。

 いよいよ4月1日当日の朝を迎えた。会場に1番乗りだったと言いたいところだが、2番乗りだった。私は1番乗りの人と会話をして、筆記試験の気分を盛り上げていった。期待と不安の入り混じった緊張感があったが、今までの努力がその緊張感を和らげていった。時事をまとめた用紙はこつこつ積み重ねて約100枚にのぼっていた。やることはやった。後は力を出し切ることに集中しようと心を奮い立たせた。作文のテーマは、親鳥がヒナに餌を与えている写真だった。

 記者になりたいという気持ちを、親に告げに行った日のことを思い出した。親は私が研究者になるものだと考えていたため、最初は大反対された。しかし、話し合いを重ね、今は応援してくれている。自分が育てた子どもを送り出す親の強さを、この親鳥の強さに重ねながら作文を書いた。

 午前中のNHKの筆記試験が終了した。すぐに午後の朝日新聞社の筆記試験に頭を切り替え、受験会場に向かう。午前中NHKを受験し、午後から他社の筆記試験に向かう人が大勢いた。その中でも朝日新聞社に向かう人は多かったように感じた。受験会場に向かう途中、自分と同じ境遇の人がいたので、友達になった。自分と同じような志を持つ人と話をするのはとても刺激的であり、元気をもらった。

 午後の筆記試験が始まった。論文のテーマは「この国を生きる」だった。記者の方に添削していただいた思い出を頭に浮かべながら、自分の書ける最良の論文を書き上げた。

 やっと長い1日が終わった。試験が無事に終わったという安堵感と、今までの努力を出し切った爽快感で満たされた。自信はというと、全くの五分だ。やることはやったので、後は結果を待つだけだという心境だった。NHKは1次面接と併せて結果が出るので、面接で少しでも挽回しようと奮起した。

 結果は……両方とも通過していた! 私はその場で雄叫びをあげたい気持ちだったが、心を落ち着けた。まだスタートラインに立ったばかりだと心を落ち着けて、次回の面接に向けて対策を練った。


忘れられないNHK2次面接

 NHK2次面接を迎えた。「失礼します!」いつものように元気よく入室すると、「こんにちは」とわざわざ席を立っておじぎをしてくれた。こんな面接官は初めてだったので驚いた。いつものように面接が進み、最後の質問で、「不安なことはありませんか」と聞かれた。

 当時私は中学生の塾講師をやっていて、教え子の中学校でネットによるいじめがあり、転校するという事件があった。地元の新聞はそのことを匿名で報道していた。しかし、中学校やその周りの地域の人たち、さらには転校先の中学校でも、被害者が誰なのかが分かってしまい、匿名性は守られていない。その事件をきっかけに、匿名のニュースでも当事者の周辺では騒がれてしまうのが不安だという話をした。面接官の方は真剣に話を聞いてくれた。「この仕事はつらいこともたくさんあります。そんな時には、なぜこの仕事をしたいと思ったのかに戻って考えます。その想いが強ければきっと大丈夫です」と自分のつらかった体験談をもとに話してくれた。

 私はこれが面接の時間だということを忘れ、話に聞き入り目頭が熱くなっていた。ありがとうございました! 退室する際にも席を立ってあいさつをしてくれた。この面接は生涯忘れられない面接になるだろう。数日後、通過の連絡が来て、2・5次面接に進むことになった。

 2・5次面接終了後、電話が鳴らないまま、期限の最終日になってしまった。電話を待つことがこんなにつらいことかと感じた。私は気を紛らわすために井の頭公園に行った。しばらく池のほとりのベンチに座り癒されていると、ポトリと上から何やら落ちてきた。なんと、鳥のふんだった。とことんついてないと落胆しながらも、これで運気がアップしたかもしれない! 電話がかかってこないかなと、電話を握りしめた。しかし、やっぱり電話は来なかった……。その日は宿に帰ってふとんの中にもぐり込んでしまった。

 その夜、偶然にも「夕張市の再出発」のニュースを見た。夕張市役所職員の早期退職者の「みんな夕張をなんとかしたいとがんばってきた! 悔しい」という声を聞いた。自分のやりたい仕事はこれだ! 地方の生の声を伝えたい! 記者の仕事は大変だと思うが、それ以上のやりがいと魅力を感じる。記者になりたい! という想いがこみ上げ、自然と涙が【る】あふ【/】溢【び】れた。

 数日後、嘘のような電話がかかってきた。電話の相手はNHKからだった。第1志望にディレクター、第2志望に記者を選択していたのだが、第2志望の記者として選考に進んで欲しいとのことだった。「ありがとうございます!」。漫画でしか見たことがなかったが、ほっぺたをつねって確認したい気分だった。


最終面接の後、苦悩の日々が…

 4月18日、記者としての1次面接から2・5次の集団面接を1日ですべて行った。1次面接が終わって待合室に戻ろうとしたら、休む間もなく2次面接のいすに座っていた。面接を連続するとこんなにも疲れるのかと、面接官の気持ちが少し分かったような気がした。

 続いて2・5次の集団面接では「給食費未払い」の報道の企画を立てるというものだった。集団面接の極意はチームに貢献することなり! という考えを持っていたので、これでもかと議論に貢献した。次の日、通過の連絡をいただいた。次回はついに最終面接だ。

 いよいよ最終面接を迎えた。エレベーターで連れて行かれる階は、いつもの7階をはるかに通り過ぎて、36階に止まった。待合室の雰囲気も、いつもの会議室ではなく、重役の方が大事な決断をしていそうな部屋だった。いつものパイプいすではなく、つやのある木製のテーブルの周りに、ふかふかの社長いすが並べられていた。

 5対1の個人面接。テレビで見たことのある解説者の方もいた。いつもの面接とは違う雰囲気で、なにか歯車が【る】か【/】噛【び】み合わないような違和感を覚えた。その違和感を引きずったまま面接は終了してしまった。その後健康診断を受けたのだが、1分ごとに不安が募っていったのを覚えている。

 最終面接後、友人には内定の連絡が来たが、私の電話には来なかった。その事実を知ったとき、全身の力が抜けた。1時間くらい時間が経っただろうか、飲食店の席に座ったまま全く動けなかった。

 それから数日間は苦悩の日々だった。今までがむしゃらに突っ走ってきたが、歩みが止まっているのを実感していた。この先、新聞社のみ受けて大丈夫だろうか。1社も内定をもらえなかったらどうしようか。不安のみが頭をぐるぐる駆け巡っていた。その不安を落ち着かせるために、自然とメーカーの企業のホームページを見るようになっていた。営業やSEになって働いている自分を想像してみる……が、どこか虚しい。こんな葛藤が続き、もやもやしたまま数日が過ぎた。


「艱難汝を玉にす」中日新聞社に内定!

 数日後、ぶらりと本屋に入り立ち読みをしていたら、ある言葉と出会った。「艱難汝を玉にす」。艱難辛苦がある時間は自分が成長できる貴重な時間なんだという意味らしい。私はこの言葉を、自分の今の境遇と重ねた。確かに、記者になる夢をあきらめずに走り続けることは苦しいかもしれない。しかし、努力してこの壁を乗り越えるまでの苦しい時間というのは、必ず自分を成長させてくれる。記者になる夢をあきらめたくない! と強く思った。

 まず地方紙に集中すること。それでもだめなら秋採用。それでもだめだったら来年1年くらい延びてでも記者になりたい! と決意した。自分の気持ちに素直に行動し、心の中はすっきりしていた。またがむしゃらに走り出せそうな雰囲気を感じていた。

 本来なら忘れたい記憶であろうNHKの最終面接を細かく思い出し、ノートに書き留めた。何がいけなかったのだろうか。次回の面接にどう活かせばいいだろうか。嫌な記憶から逃げずに真剣に向き合った。問題点を把握し、次回の面接に向けて修正することで、自然と気持ちが切り替わっていった。その内容を面接対策ノートにさらに付け足した。これまでの積み重ねで、面接対策ノートの枚数は20枚を超えていた。これまでの経験と、記者になりたいという想いがぎっしり詰まったこの面接対策ノートで、いつしか不安が自信に変わっていった。

 5月、地方紙の受験が始まった。「艱難汝を玉にす」記者になる夢を絶対にあきらめないと決意してからの自分は怖いもの知らずだった。順調に選考を進めていき中日新聞社の最終面接を迎えた。12対1の個人面接。こんなに多くの面接官を相手にするのは初めてだったが、不思議と全く怖くなかった。今回は歯車ががっちり噛み合い、面接官とひとつになれた気がした。結果は中日新聞社を含め2社から内定をいただいた。


就活を終えた時、ノートは25冊に

 振り返ってみると、就活は自分と真剣に向き合って考えた貴重な時間だった。自己分析などで使用したノートは25冊にのぼっていた。「人生は選択である」自己分析をしっかりして、本当の夢をみつけ、しっかりと自分の人生の舵を取って欲しい。自己分析をしているとやりたいことが見えてきて、志を立てることになるだろう。「発心」「決心」まで来たら、残るは「相続心」である。これが一番難しい。いかに自分の夢にこだわれるか。あきらめずに行動できるか。夢にこだわると必ず困難がやってくるだろう。そんなときには「艱難汝を玉にす」――これは就活中に得た私の信念だ。これからの人生でもこの考え方を大切にしたい。

 内定をもらって就職活動は一息ついたが、まだ記者という仕事のスタートラインに立ったばかりだ。これからもがむしゃらに突っ走っていきたい。みなさんも本気の夢を見つけられることを願っています。

出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。