2年間の活動に耐え
地方局アナへ

S君/同志社大 地方局アナ内定


 私がアナウンサーになりたくなったわけ。それは1年目の就職活動で、フジテレビの面接を受け、(何故か)見事通過し、カメラテストを体験したからである。
 カメラの魅力に取りつかれ、それを使って自分が今までやってきたスポーツの仕事をしたいと思うようになった。
 しかし私がアナウンサーになるには明らかに準備不足だった。そのため1年目の就職活動は面接の練習、発声練習と割り切って活動した。最終的にはテレビ関係の仕事に決まったが、そこを蹴り2年目の活動に備えた。
 ここでは便宜上マスコミ関係の活動にしか触れないが、2年目ということで精神的プレッシャーもあり一般企業も数社受けていたことをご理解頂きたい。

秋のセミナー参加権ゲット!

 2年目の就職活動のオープニングは、各社の秋のセミナーである。各社といっても私が受けたのはTBSとNHKのみ。テレ朝に関しては1カ月に4回毎週行かなければならないという関西人泣かせの日程で、諦めざるを得なかった。TBSは書類審査の後1度面接があり、それに通過すると晴れてセミナー参加となる。私の場合は面接で歌を歌いセミナー参加権をゲットした。
 セミナーは3日に分かれていて私は初日。TBSに集められて20人ばかりで講習会が行われた。内容は原稿読み、CM読み、それを踏まえたカメラテストといった感じであった。ここで目をつけられた人には後日連絡があるらしい。残念ながら私には無かった。
 ちなみにこの20人のうち関西人は3人。そのうち私を含めた2人がアナウンサーになることになる。結構為になるセミナーなのかもしれない。就職活動に向けての意識を高めるという意味でも、このセミナーの価値は高かった。
 私が受けたもうひとつの事前セミナーはNHK。電話で申し込むと誰でも参加できる。しかし関西地方での告知は無く、東京の人達から情報を仕入れて参加をする必要がある。私の場合はさきのTBSで噂を聞いて申し込んだ。
 セミナーはカメラの前で原稿読みのレッスン。1クラス15人ほどの人数だった。現役のアナウンサーに直に教えてもらえるので勉強になった。このセミナーもTBSと同じように後日呼ばれることになる。私も呼んでもらえた。ここで書く履歴書はこの先ずっと使うので注意が必要。

本試験開始、でも連続1次落ち

 年が明けてそうそうフジテレピとTBSの面接から2回目のアナ受験が始まった。昨年残ったフジテレビと秋に残ったTBS。ここで好スタートを切りたいところだったが、いきなり躓いてしまった。どっちも×。まあキー局はこんなものかなという感想だけを残して東京を去った。
 2月にはいるとすぐABCに行ってきた。5分という回転の速い面接の中、私は何故か10分以上もスポーツについて聞かれた。しかし×。このあたりから私のアナウンサーに対する適性について疑問が持ちあがってきた。
 前後するようにキー局の一般職。フジテレピ1次通過。2対2の面接だったが、ここで一緒だった女の子(ここで落ちた)は日テレ内定。しかし私は日テレ1次落ち。就職活動なんてこんなものである。素直に知り合いからキー局内定者がでたことが嬉しかった。受けているうちにできた友達はライバルであるが仲間である。変な嫉妬は抱かず仲間は大切にしよう。
 2月後半になるとNHK-CTIから坪ぴ出しがあった。2日間にわたる講習会。1日目は原稿読みの練習(だったらしい)。というのも関西テレビの面接があって遅刻してしまったのだ。昼からは筆記試験。勉強の甲斐あってけっこうできた。2日目は原稿読みとフリートークのカメラテスト。ここまで残っている人達はやはりうまい。まあでも自分も残っているのだからそれほど気にはならなかったが……。終わった後はみんなでご飯を食べに行った。こうやって私は友達の輪を広げていった。大阪に帰るとMBSの面接。3対4のグループ面接で競馬実況をさせられた。しかし落ちた。さすがにブルーだった。今までなにか芸をしたときは落ちたことが無かった。しかし落ちた。これはヤバイな。

NHK-CTIから連絡が

 この後名古屋、仙台と受けつづけるがダメ。相当落ちこんだ。そんなときにNHK-CTIから連絡。最後に面接を受けなさいとのこと。これには飛びあがった。もう少しというところまで来た。面接といっても内容はカメラテストと同じ。原稿読んで質問という感じ。出来はいまいちだったのが少し不安だったが。あとは本番の筆記がうまく行けば……。期待は広がった。
 この頃になると関西の局でも一般職が始まる。3月22日MBS筆記。4月6日MBS面接。4月10日関西テレピ面接。ここまではうまく釆たが4月12日MBSの局長面接でついに落ちた。NHKの筆記に向けていい流れだったので、これを持続したかったのだが。
 4月13日NHK受付面接とマイクテスト。これもかなり感じよかった。筆記には自信があったので、これは行けるぞと思った。
 4月17日中国放送グループディスカッションを経て、4月18日NHK筆記。しかしここで痛恨のミス。人生最大の勝負で人生最大の失敗。このあたりが私の人間性をよくあらわしていて妙に楽しかった。これまでのリードで何とかならないかと思ったが、何とかならないのが就職活動という奴である。結局、見事にNHKアナの夢は潰えた。私はこれで自分のアナウンサーへの適性にいったん見切りをつけた。

一度は見切りをつけたアナだが…

 4月19日、4月26日の面接を経て、5月2日関西テレビ2次面接。見事に落選。感じは良かったのだが。最後のほうに弱いらしい。これは能力なのか? それとも留年のせいなのか? 5月8日電通筆記。5月15日面接と来て、5月23日最終ひとつ前(といっても最終は意思確認なので事実上の最終)で落ちた。
 ペネッセも3月17日、5月11日、5月23日と来て6月4日最終落ち。そうこうしているうちに日本最大の通信会社の最終。しかし受けているうちに一般企業ではダメだと思い内定辞退。マスコミ受験のみに集中することに。この時点で残っていたのが報知新聞社と広告会社のオリコム。報知新聞社ではひたすら得意な競馬の話で盛り上がっていった。私はここに来て自分の得意分野だけで勝負するようになっていった。「試験の時にギャンブルの話なんて」って思う人がいるかもしれない。もちろんある意味これはギャンブルなのかもしれない。しかしあまり得意でないというよりむしろ苦手なコソボ問題の話をするよりもこっちのほうが面白いはずだ。私は面白がらせることに集中した。それが大半の会社では受け入れられた。そして通過していった。痛恨だったのはこの希望企業ふたつの最終がバッテイング。私はスポーツができる報知新聞社を選んだ。そしてついに最終通過! ついに活動を終えるときが来たか! と思いきや今度は健康診断落ち。もうどうなってるんだか。
 6月の末からは瀬戸内海放送が始まる。面接、筆記試験、カメラテスト。ここでもアナウンサーの試験が一通り行われた。私はNHK以来のアナ試験だったので結構緊張したが、何とか通過。最終で社長さんと面接。1週間たっても連絡が来ないので「またか」と思っていたが通過の電話。やっとこさ就職活動を終えることができた。

2年間で得たこと、伝えたいこと

 仕事を決めるなんて重要そうだけど決してそんなことは無い。ほんの数カ月で見つけた仕事を一生の仕事に出来るかどうかなんて誰にもわからない。だから自分のやりたいようにやる。会社に選ばれるのでなくて会社を選ぴに行く。そのくらいの気持ちが必要。「気に入られたい」なんて思っている人はその時点で気持ちで負けていると私は思っている。自分の気持ちで負けている人にマスコミの難関はなかなか突破できない。今までの話を見ても分かるように私はいろんな所で残りまくってたわけではない。どちらかといえば、アナウンサーに関してはほとんど1次か2次で落ちてきた。でも最後の最後は決まった。結局はそんなもの。どこでも最終まで行く人が決まるわけでもないし、すべて1次落ちだからって決まらないわけでもない。自分という人間が出せるかどうかで勝負は決まる。だからいつまでも諦めずに頑張ってほしい。諦めたときが夢の終わりであると思う。逆にいえば諦めなければ考えさえすれば何とかなる。時には落ち込むこともあるだろう。でも人生前向きに頑張ってほしい。こんな私でもアナウンサーになれたのだから。私も何かの役に立てるのなら協力したいと思います。
 では皆さんのご健闘をお祈りしています。気楽に、そして大胆に頑張ってみてください。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。