連戦連敗から大逆転 スポーツ記者へ
K君/青学大 スポーツ紙内定
「長い就職活動は学生生活最後のドラマなのです」(『マス読2000年度版入門篇』編集後記より)。まさか、この言葉の意味をいやというほど思い知る羽目になるとは……。就職活動スタートから終了まで、かかった時間は6ヵ月。絶好調の出だしから、一度どん底まで落ち、そして、最後に起きた奇跡まで、それはまさに、ジェットコースターさながらであった。 マスコミ、マスコミと十把一絡げにいうけれど、私がなりたかったのはただ一つ、新聞記者。小さな頃から、文章を書くこと、そして、その書いた文章を誰かに読んでもらうことが好きだった、というのが第一の理由。常々、「いつか、文章を書くことで食っていけるようになりたい」と思っていた。就職について具体的に考え始めたのは、おそらく、これを読んでいる多くの人がそうであるように、大学の3年生になってから。「とにかく新聞社!!」という強い思い入れはあったけれども、いったい、私は新聞社で何をやりたいのだろう? 父や先輩曰く、「自分の好きなことを仕事に出来たら、こんなに幸せなことはないよな」。ならば、自他共に認めるスポーツバカの私。なってやろうじゃないか、スポーツ記者に。いつか実現するであろう、真のべースボールワールドシリーズの記事は俺が書く!! というわけで、第一志望はスポーツ紙だ。
宇多田ヒカルって誰?
年が明けて2月、いよいよ就職活動シーズンの幕開けだ。しかし、私はこのスタート時から、いささかの不利を背負うことになる。1998年の4月から1年弱の予定で留学していたニューヨークから帰国したのが2月の上旬。準備期間がまるっきりない。特に、筆記試験に出るであろう時事不タのわからなさといったらもう……。事実、フジテレビの筆記試験で出た、宇多田ヒカルが誰かわからなかったくらいだ。とはいえ、立ち止まっている時間もない。まずは、本命の新聞社をにらみつつ、面接慣れしておくために、テレビ局からスタートだ。根拠のない自信とオプティミズムを携えて。 2月17日、フジテレビ一次面接。2対2で、自己PR等、志望書が中心の質間。面接ってこんな感じなんだあと思っているうち、あっという間に終了。「よくしゃべるねえ」と言われたことしか覚えていないが、なぜか通過。ちなみに、私の友人は、ほとんどここで脱落。 2月25日、フジ2次面接。1次の時、帽子をかぶって面接を受けていた奴がまたいる。へー、フジってああいうのOKなんだ。肝心の面接はというと、これが最悪。あらかじめ考えておいた企画を完全否定され、まともにこっちを見ることすらしてくれない。「お言葉ですが……」、「おっしゃっていることはもっともです。しかしながら……」等と必死に抵抗を試みるが、相容れないまま、面接官が20回ほど首をひねったところで面接終了。だめだこりゃーと新橋の立ち食い寿司でヤケ食い。ところが、通過の電話。もう、何が良くて何が良くないのかわからん。ちなみに、この時の面接官は、私がスポーツ部志望のためか、K大ラグビー部監督で、元キャスターのU氏。 2月26日、TBS書類提出&流れ作業のような予備面接。仕切すらない隣のブースで面接を受けていたのが、たまたま私の友人で、けったいな自己PRが耳に入る。吹き出しそうになるのをこらえつつ、自分も自己PRして難なく通過。 2月28日、フジ筆記。この時点で、14000人いた応募者が300人強に。前述の通り、時事ネタはさっぱりだが、クリエイティブテストと「フジテレビの今後」と題する作文で奮闘。まあ、大丈夫だろうと高を括る。この時、隣の席だった関西学院大のDJ・N君は最高にいい奴で、こんな奴と一緒に仕事できたらなーと思う。就職活動中のこういう出会いも悪くない。 3月2日、TBS1次面接。絶好調、笑い満載。我ながら満足な面接であった。が、連絡はなし。やはり、しゃべりすぎはダメなのか? 同日、フジより筆記通過の連絡。次回の面接は服装自由とのこと。 3月4日、フジ3次面接。スーツはごく少数派で、私もタートルネックのセーター。可もなく不可もなく。帰りに新橋で、N君と鰻を食す。で、無事、通過。この頃から、「あいつ、フジに決まっちゃうんじゃねーか?」という、嫉妬の混じったざわめきが、友人間に広がる。見てろよ、決めてやる。 3月6日、フジ4次面接。土曜日のため、社員通用口から入る。気分はもう、いっぱしのフジテレビ社員。スポーヅ紙第一志望のくせに、「決まっちゃったら、ここでもいいな」と不届きなことを考え始める。面接、健康診断で血を抜かれ、さらに人事面接と盛り沢山。他愛もない話をしてお終い。その後、N君ら5人と、抜かれた血を補充するため新橋の焼鳥屋でレバーとビール。「ここまできたら入りたいよね」と口をそろえる。 翌日、無事、通過の電話。しかし、N君はここで脱落。毎回、大阪から飛行機で来ていたので、「交通費だけでも10万円以上かかってんのに、そりゃねーよ」と嘆いていた。 3月8日、フジにて、ある人物の講演会。4次面接通過者は全員出席。人事の方日く、「みんな知ってる大物プロデューサー」だとかで、やってきたのは「踊る犬捜査線」の亀山千広氏。誰それ? 有名らしいけど、俺、知らねーや。 3月10日、いよいよ、フジ最終面接。もう、36人しか残っていない。研修室に集合した後、なにやら物々しい雰囲気のフロアーに通される。さすがに緊張してきた。面接室前で待っている間、人事の方に、「いつもより前髪たってるね」と言われる。しまった、気合いが入りすぎたか。それでも、筆記試験のクリエイティブテスト及び作文の内容を事細かに褒めて下さり、そんな細かいことまで覚えてくれているんだと感動。いい具合に緊張もほぐれ、いざ出陣。役員の方々がずらーっと十数名。うわさ通り、正面にビデオカメラが設置してある。面接風景を入社式で上映するのだとか。もし落ちたら、私の登場シーンはお蔵入りなのかな? 等と思っているうちにあっと言う間に終了。正味10分。最終まできても、なぜか志望中心の質問。手応えなし。うーん、どうだろう。 待合室で仲良くなった4人と電話番号を交換して帰宅、19時から23時に入るという内々定の連絡を待つ。途中、何度かその4人と連絡しあうが、誰にも電話がないまま22時50分。「何で連絡ないの?」「会議とかで遅れてるんじゃない?」等と悠長なことを言っている間に、時計は23時を打つ。何? みんなで落ちたの? 勘弁してよ。 その後2日間、来るはずのない電話を待ち続けてつかいものにならず。 いいんだよ、俺は新聞記者になるんだから。強がってはみたものの、ショックから立ち直れぬまま、3月13日、ニッポン放送1次面接。ここもフジサンケイグループなんだよなー。脳みそがバッドトリップを起こしながらも、通過。 ニッポン放送の2次面接は筆記とセットで3月19日、20日。でも、よく考えると、私は「ショウアップナイター」以外、ラジオを聴かない。従って、何を聞かれても支離滅裂。だめだ、こりゃ。筆記の会場で、ニッポン放送の人事部に勤める知り含いに、「がんばってくださいね」と声をかけられるが、当然のように惨敗。さらにその会場で、NHKの書類提出締切が、その前日であったことを知り、愕然。忘れてたー。 4月6日、テレビ朝日1次面接。2対1。終始和気あいあい、笑い笑い笑い。「君おもしろいねえ」と面接官。それって褒め言葉? 通過。 4月9日、テレ朝2次面接。面接官って、ちゃんと見るところ見てるなあと痛感。私が新聞社志望であることがバレちゃった。「うちはどうしてもテレビ局っていう人以外、いらないんだよっ」ときつい一発をもらって、はい、それまでよ。
気を取り直して新聞幕開け
いよいよ、新聞業界の幕開けだ。 4月11日、産経新聞筆記。ここは産経とサンケイスポーツが一括採用。スポーツ紙志望の私としては、いやが上にも力が入る。肝心のテストはというと、これが苦手の漢字のオンパレード。その数、ざっと100以上。さっぱり、わからん。作文だけが会心の出来。後はその辺のところを考慮してもらって……、何とか通過。 4月14日、共同通信1次面接。2対2。当然、私は運動記者志望。面接の相方は、新聞社の機能と通信社の機能の違いすらわかっていない。私は、そのあたりに抜かりがないことを示し、かつ、いかに記者になりたいかを語った。手応えあり。でも、ダメ。なぜだろう。やはり、面接官の「よくしゃべるね」の一言に原因が? 4月17日、目経新聞筆記。会場は東京ビッグサイト。ゆりかもめからフジテレビ社屋を恨めしげに見上げつつ、会場に到着すると、そこはもう、だだっ広い平野に人、人、人。数千人が一つの空間で、同時に試験を受ける光景は圧巻だ。スポーツ記者志望とはいえ、大学では経済学部に籍を置く身、ここでの落選は私の大学生活、それ自体の否定を意味する。しくじるわけにはいかない。が、あっさり、否定されてしまった。 翌4月18日は読売新聞筆記。午前中、NHKを受けてきたという奴を数名見かけ、「俺だって受けたかったんだけどさ…」と、自分の書類出し忘れというミスを棚に上げて、愚痴ってみる。試験の方は、例によって、筆記いまいち、作文は会心という出来。産経はそれでも通った。読売も……。 4月20日、朝日放送1次面接。在京キー局以外で受験したのはここだけ。理由? 大学の就職課にエントリーシートが置いてあったから。ただ、それだけ。面接の待ち時間中、新人アナがコントをやっていた。関西人のお笑い気質、ここに極まれり、ですな。面接では、「注目している若手芸人は?」と聞かれ、「爆笑問題です」と答えたが、彼らって、もう若手じゃないよね。でも、通過。同日、読売新聞からの連絡はなし。二匹目のドジョウはいなかったか。結局、産経・読売と同日程で受けられなかった朝日・毎日と合わせ、五大紙のうち通ったのは産経だけ? なんてこったい。 4月22日、産経1次面接。昨今のスポーヅ事情に関する質問には無難に答えたが、志望書の「最近、関心を持ったニュース」の欄に書いた”ピル解禁”について触れられ、あせった。志望書を書いたのは約2ヵ月前。当時の関心事は、すでに忘却の彼方。しどろもどろになり、敗退。志望書の内容を、面接前にもう一度よく吟味することの重要性を思い知る。これで五大紙全敗。尻に火がついた。 全国紙に全敗し、新聞記者になるという夢が遠のいていくのを感じながら、ゴールデンウィークに突入。周囲からは、「一般企業も受けてみたら」という声も出始めたが、そこは初志貫徹、自分が記者以外の仕事をしている姿など想像すら出来ないので、他業種に目を向けるくらいなら、と自分の志望動機と業界研究を洗い直し、筆記試験対策も、改めてスタート。 5月8日、ゴールデンウィークも明け、朝日放送筆記。フジテレビ最終落ち仲間の一人と出会い、互いの傷を舐め合う。試験自体は比較的平易で、楽勝。次回、面接は大阪で、とのこと。初の遠征だ。
作文が書けないっ
翌5月9日は、講談社、時事通信、中日新聞の筆記がバッティング。当日の朝まで悩み、時事を受けることに決めた。しかし、ここで私に異変が起こる。それまで絶好調であった作文が、全く書けなくなってしまったのだ。私は、マスコミ筆記試験の作文対策として、一つの”型”を持っていた。一つの会社の方が読む作文はせいぜい一つか二つ。毎回、同じ”型”で書いてもバレるわけがない。ところが、ここへきて自分のそうした姿勢に疑間を感じ、つい、いつもと違うパターンに挑戦した結果、自分の”型”すら見失った。全くペンが走らない。ほとんど泣きながら書いた作文は散文調。途中退室だけは何とか我慢したが、当然、ダメ。悔んでいる暇はない。”型”を取り戻すため、自分で設定したテーマに沿って数本の作文を書いて、邪念を取り払う。一般教養の分野で後れをとる私にとって、作文は生命線なのだ。 5月10日、日刊スボーツ書類持参&面接。流れ作業形式。面接官は少々、お疲れのようであったが、親切に対応して下さった。「次回の面接までに、こことここのポイントをもう少し煮詰めておくといい」との言葉に通過を確信。そして、その通りになった。 5月13日、朝日放送2次面接&健康診断のため、一路大阪へ。面接の会話が待合室に筒抜けの構造で、「毎日新聞から内定をもらってます」という声が聞こえたときは、すかさず誰かが、「じゃ、そっちいけよ」とつっこみを入れていた。全くだ。面接では、大阪に来る気があるかどうかをずいぶん聞かれた。面接官の反応はいまいち。友人に会う気にもなれず、立ち飲みの串揚げ屋で一杯やって、東京に帰る。 翌日、朝日放送からの電話はなかった。これにてテレビ局は打ち止め。新聞記者志望とはいえ、とりかえしのつかないところまで来ているような……。 今まで書かなかったけれど、この頃までに、怒涛の出版社連続書類落ちを経験する。集英社、小学館、文藝春秋、角川書店、扶桑社等。出版業界にはあまり興味がなかったので、別に屁とも思わなかったけれども、やっぱり、本気でそこの業界(会社)にいきたいと思っている人しか通らないんだなあと妙に納得。 5月23日、神奈川新聞筆記。神奈川新聞社の「社是」や新聞協会の「編集権声明」の空所補充等、かなりマニアックな間題。手応え、なし。試験後に行われたパネル討論会で、なかなか切れのある質問をしたけれど、試験自体の出来に納得がいかず、「ダメだろうなー」と思いつつ、帰宅。5月27日、やっばり、連絡はなかった。新聞社の秋採用はもちろん、就職浪人も視界に入り始めた。 5月29日、目刊スボーツ筆記。これに合格した者だけが作文試験を受けられるらしい。筆記とは名ばかりのSPIのような間題。すぱすぱっと解いて、さくっと通過。 内定のないまま、とうとう6月。私より遅れて就職活動を始めた友人達が、次々と内定をもらっていく中、6月6日、最後の砦・目刊スポーツの作文試験。相当せっぱ詰まっていたのだろう、作文のテーマを覚えていないし、出来たか出来なかったかも、定かでない。 6月9日、目刊スボーツ1次面接。作文とセットで3対2。相方が営業職志望で、記者職志望の私と質問の内容がかみ合わず、お互いにあまり話が進まない。正直、これほど悔しい面接もなかった。自分に対して腹が立った。かすかに期待してはいたけれど、やはり、不通過。2000年度就職”惨敗”の文字が頭をよぎる。
最後のチャンス、スポニチ
この時期、一つだけ助かったことは、今年は募集を中止すると思われていたスポーツニッポンが、前年より1カ月ほど遅れて募集要頃を発表したこと。少なくともあと1回はチャンスがあるわけだ。クモの糸ほどかすかなものだけれど。 6月25日、スポニチ1次面接。2対1。他の受験者も皆、せっぱ詰まっているのか、待っている間、誰も口を開かない。苦手なんだよね、こういう雰囲気。質間は志望書に沿ったもので、特に「なぜスポニチか」という点に重点が置かれていたようだ。「もう、どうにでもなれ」と開き直ったのが良かったのか、言いたいことが言えて、通過。私の話を遮ることなく、じっくり聞いてくれたことに好感を持った。 7月4日、スポニチ筆記。スポーツ、芸能、政治、経済、その他様々なジャンルがごちゃ混ぜになった、いかにもスポーツ紙らしい一般常識問題。スポニチの筆記対策として、図書館で1年分のスポニチを読み漁っておいたのが功を奏したのか、スポーツ・芸能はほぼ完壁。英語も、やはりスポーツネタ(ちなみに大リーグネタ)であったことと、その話題自体を知っていたこともあり、楽勝。合否の判定が出るまで、2週間半も待たねばならなかったが、「たぶん、大丈夫」と楽天的に構えていた。結果的に通過したのだが、後から聞いた話によると、この試験で約十分の一に人数を減らしたそうで、妙に楽天的であった自分が怖い。 7月28日、いよいよスポニチ最終面接。前年より面接が1回少ないらしい。この日は私の誕生日。プレゼントいらんから内定くれ。 面接室に入ると、そこは細長い机を挟んだすぐ目の前に、十数名の役員の方々がずらーっと居並ぶ恐ろしい光景。近すぎて、一つの視界に全員は入りきらない。矢継ぎ早に質間が飛んでくる。中でも、私が留学中に体験したアメリカにおける個人主義の風潮を筆記試験の作文に絡め、たった1000字の作文中に「我々は……」という表現が7回も出てくることに触れた上で、せっかくアメリカに住んでいたのに、良い意味での個人主義が身に付いていないのではないか、と指摘されたのには、「なるほどなー、文章のプロは一つの作文から、そういう読み取り方をするのかー」と感心、ぐうの音も出なかった。あちこちから失笑が漏れてきたが、あとはパワーで乗り切るしかない。あーだこーだと言ってはみたものの、「まずい、失敗したー……」。 結果は7月中に連絡とのこと。最終だし、大抵はその翌日あたりに電話があるはず。で、29日。連絡がない。かなり不安。30日。またも連絡なし。半ばあきらめ。31日。なしのつぶて。絶望。おーい、落ちても連絡くれるんじやなかったのかー? そして、8月1日の日曜日をはさんで、2日に一通の手紙が。普通、最終通過の連絡は電話。手紙ってことは、「残念ながら……」で始まる文章か……と覚悟して封を開けると、いつもと紙の感触が違う。和紙だ。しかも人事部長殿直々の署名入り。何やらものものしいぞ。肝心の文面はというと、「現時点で補欠云々……」? で、「結論は9月末までに連絡……」? 2ヵ月も待つの? と、喜ぶべきか悲しむべきか、全くわからん代物が届いた。一つだけ確かなことは、締切が3日後に迫った読売新聞秋採用の書類を作らねばならないということだけ。いまいち釈然としないまま、机に向かう。
補欠? 内定? どっちだ!
ところが、その翌々日、一本の電話。スポニチ人事部の方からで、明日の健康診断を受けにきてほしいとのこと。どういうことだろう。健康診断会場には、私を含めて7人の新卒受験者。でも、補欠なんて私一人だけ。私は彼らと同等? それとも、あくまで補欠? ここまでくれば大丈夫だと言う人もいれば、スポニチ主催のセミナーでは、今年の採用は2〜3人と言っていたので、まだ、わからないと言う人もいる。胃が痛くなってしまうよ、全く。 そして、運命の8月10日、晴れて内定の連絡が。喜びというより、脱力感たっぷり。さらに、信じられないという気持ちも相まって、自分の感情をどう表現していいのかわからない。今はただ、二度と起きることがないであろう奇跡に、しばし、酔っていたい。そんな気持ちだ。 月並みな表現ではあるが、まさに山あり谷ありの6ヵ月間。苦労もしたけれど、第一志望のスポーツ紙、しかも、普段から読み親しんでいたスポニチ(たまに浮気もするけれど)からの内定という最高のフィナーレ。諦めなくて、ホントによかった。 私は緒局、一般企業は一つも受けなかった。内定はスポニチからもらった唯一つ。とにかく新聞社! という強い信念に基づいてやってきて、結果的には最高の結末を迎えたけれども、一歩間違っていたらと思うとぞっとする。だから、これを読んでいる皆さんに対し、自分がやってきたやり方が成功するパターンだと断言はできないし、無責任に「マスコミにしぼって頑張れ」とも言えない。その危うさをよく知っているから。現実間題として、マスコミの求人数は志望者数より明らかに少ないのだから、誰かがあぶれるに決まっている。どうしても”内定”がほしいのならば、他の業界に目を向けるのも一つの手。しかしながら、マスコミで内定を勝ち取った人の多くは、「とにかくマスコミ!」と諦めずに頑張ってきた人たちであることもまた事実。そのジレンマを克服することこそが、マスコミ内定への第一歩ではないかと思う。 私の場合、今年、新聞記者になれなかったとしてもまた来年、と思っていた。何度失敗しても、新聞記者になれるまで、毎年毎年、挑戦してやろうと開き直ることで、そのジレンマを克服した。もちろん、これは私のやり方。皆さんには、自分なりの決意をしてジレンマを克服してほしい。中途半端な気持ちで始めると、きっと後悔すると思うよ。 一つだけ具体的なアドバイスができるとしたら、「情報収集に抜かりなきよう」ということ。今思えば、例えば、試験や面接が重なった時、私は無条件でどちらか一方を選んでいたけれども、ひよっとしたら、それも変更できたのかもしれない。貴重な手駒を戦わずして放棄してしまって、後悔したくないでしょ? だから、情報収集はしっかりと。振り返るに、就職活動ほど結果と過程が一致しないものはない。どの会社でもまずまずのところまで進みながら、内定にはいま一歩手が届かず、最後まで自らの思惑と異なる結果しか得られなかった人もいれば、私のように、連戦連敗、惨敗続きの末、第一志望からの内定を手にする者もいる。だから、ある程度うまくいっている人は油断せず、どうもうまくいかない人も諦めず。おそらく全ては紙一重なのだから。 強く願えば夢は叶う、という神頼み的精神論は、就職に関する限り、意味をなさないけれど、強い思いが底力を生み出す原動力であるのは確か。結局は、「マスコミで働きたい!」と一番強く思った人が勝つのかな。 あとは、皆さんの元に幾分かの幸運が舞い降りんことを。
<注>便宜上、多用しましたが、私は”マスコミ”という言葉が嫌いです。ご存じのように、マスコミの内部は細かく枝分かれしているのですから、「マスコミ志望」という暖味な目標ではなく具体的な目標を持って頑張って下さい。
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