650倍の難関突破し 新聞社出版局へ
Nさん/一橋大 新聞社内定
根拠のない自信からスタート
就職活動とは、ちょっと大人になるための、手強い壁のようだと、今思う。その壁の高さも厚さも決めるのは、自分。そして、それを乗り越えるのも、自分。 できることなら、壁は低いほうがいいや、という思いとは裏腹に、私は、編集者という職薬に惹かれていた。編集者、というより出版社は、非常に採用数が少ない。狭き門だ。厚い壁を乗り越えるには、それなりの技術が必要な気がする。出版関係なら、大学時代にミニコミ誌を作っていた、雑誌や本を恐ろしくたくさん読んでいるといったような。 私は、というとそういった要素があまり、というかほとんどない。そんな私に、周りの人は、あなたがなぜ出版杜なの?そんな簡単に入れるところではないんだよ、と言う。今思うと、それも当然。しかし、その当時の私は、出版杜は私に合うんだ、という妙な自信を持っていた。根拠のない自信だったが。 そんな根拠のない自信が最初に崩れたのは、マスコミ就職はじめのテレビ局。もともと苦手な面接、練習にと思って受けてはいるが、落ちると自分すべてが否定されたような気がする。特に、2対2の面接の場合、もう一人の受験者と自分を比較してしまい、面接中にどんどん沈んでゆく自分がいたりする。しかし、ここでたくさん落ちておいて、どうとでもなれ、という開き直りの精神が培われたのでは、と思う。失敗から学ぶことは大きい。 テレビを一通り落ちた後、新聞社がはじまる。
新聞筆記対策は半年前から
私の第一志望は、朝日新聞杜の出版局。理由は、編集者であっても記事を書くことができること、『AERA』が好きであること。新聞に載るような、事件や事故の関係者といった「特別な人」よりも、『AERA』がよく特集を組む「普通の人」について、私はとても興味がある。 たとえば、電車に乗って周りを見渡したときに、みんながみんないろんな幸せや悩みを抱えていて、いろんな人生を歩んできたのだろうな、なんて思って、一人一人の過去を想像してしまったりする。それを、想像ではなく、一人一人と話して、記事にすることは、面白い仕事だろう。そして、誰かの人生を伝えることで、ほかの誰かの生き方が少し変わったりする、そんな杜会への関わり方ができたらいいな、と思う。 新聞社受験の対策としては、まず新聞を毎日読むことから始めた。といっても、受験半年前ごろからのスタートであったが。それでも、ほとんどの記事に目を通すのは、かなりの大仕事である。 新聞杜を受けるならば2紙以上読め、と言われるけれど、ちゃんと考えながら読むのであれば、1紙で十分。考えながら、というのは、書いてあることをただ記憶するのではなく、批判や、疑問を持ちながら、という意味。それができないならば、ほかの新聞で違う見方を学ぶのもひとつの方法かもしれない。 毎日の新聞をきちんとまとめてあるものとして、『朝日キーワード』はお勧め。しかも、そのまま出題されているのが、数題あった。かなり喜んだ。 マスコミの予備校や、通信添削などは、私は一切受けていない。だから、それらがいいか悪いかは、なんとも言えない。その代わり、自分で、何本か、練習の論文を書いてみているし、普段から、文章はよく書くほうであると思う。予備校に通ってない分、逆に、文章に私らしさが出ているかもしれない。とにかく、人とは違ったことを書く、読む人が楽しめることを書く、これが私の鉄則である。 4月11日朝目新聞社筆記試験。しかし、前日からひきはじめた風邪が悪化し、思考能力最悪のコンディション。まあ、私が悪い。論文のテーマは、「日の丸・君が代考」。私の鉄則に従い、小学校の夏休みの工作について書く。論文というより、作文になってしまった。4月16日朝日から電話がくる。あんな作文で、としばし唖然。
「君、黒いねえ」
4月22日朝日1次面接。1次だから、と気軽にドアを開けた向こうには、編集長が5人ずらりと並んでいた。 面接最初の質間は、 「君、色、黒いねえ。じゃあ、その黒い話から」 女の子に向かってなんて事を……と思いつつも、自己PRといった、ありきたりな質問ではないことに、この会社の面島さを感じた。そして、この意外な質間に驚いて、そして面白くて、私の緊張はスーっと消えていった。 結局ここでは、色の黒い話(部活について)と、志望書の中身を何力所か聞かれる程度で、志望動機は聞かれなかった。 同時に、短い作文を書いた。天声人語の本が与えられ、好きな文章を選び、感想を書くというもの。 次の日の夜に、1次通過の電話。
650倍の難関をくぐり抜けた!
5月6日朝目最終面接及ぴ健康診断。出版編集は、面接は2回だけ。私は、最初に面接、その後健康診断だったが、その逆の順序のグループもいた。今回は、ドアを開けると、ふかふかの絨毯に、大きな部屋で、面接官は局長ら8人だと教えてもらえた。入った途端、窓の外の眺めがとてもよく、高いところが好きな私は、それで少し落ち着くことができた。 質間は、部活のこと、転勤は大丈夫か、フェミニズムについて、など。 面接の手応えは、まったくなかった。こう言えば通る、通らない、といった物差しがないので、今でも、面接のコツはまったくわからない。一生懸命さをアピールすることが大切、ということはいえる。そして、根拠はなくとも、自分に自信を持つこと、自分を好きでいることが大切だと思う。これくらいしかわからない。 次の日の夜、内定の電語。 結局、1300人受けて、内定者は2人であった。今年は、少ないそうだ。650倍だったんだよ、という人事の方の言葉を聞いて、気が遠くなりそうだった。運がいいな。本当にそう思った。 出版杜は新聞杜の後、採用が始まるのだが、私は朝日新聞杜に受かった時点で就職活動を終えた。最終までいったのは、ぴあと、日経新聞社。2杜とも、最終面接を辞退することになった。 ぴあは、いわゆる出版社ではない。チケット事業に力を入れていて、配属先の割合も、出版事業は少ない。だから、ぴあに入ったからといって編集の仕事につけるとは限らないし、仕事自体、プロダクションに任せる部分が多いそうである。それでも、会社としては、非常に面白そうな色を感じた。しかし、面接に関しては、毎回圧迫を感じるものであった。面白いことを語そうとしても、にこりとも笑ってくれなかったり、一つのことに「なぜ、なぜ?」と重ねて突っ込まれたり。3次面接では、面接の前に、最近関心を持っている社会間題など書かせられたのに、面接では、それに一言も触れられなかった。こちらのこころを振り回しているようにも思えた。後味の悪い面接は、大体落ちるのだけれど、最終まで進んだのは、とても不思議であった。
日経さんごめんなさい
日本経済新聞社は、2回しか面接を行わず、最終まで進んだ、といっても、筆記と1次が通ったに過ぎない。朝日と違い、出版編集者も記者職と同じ面接を受ける。そのため、面接で、出版を志望していることを強く言った。ただ、ここの出版編集は、自分で書くことがないため、文章を書ける朝日のほうが第一志望だと、正直に言った。新聞も朝日新聞を取っていると言ったし、日経新聞は私には難しすぎるので読まないとも語した。それでもいやな顔をせず話を聞いてもらえたので、辞退するのは心苦しかった。 今の時点で、自分の選択がベストだったのかどうか、まだわからない。大手3社を最後まで受けなかったこと。文藝春秋や新潮社にも興味があったこと。しかし、私は、私に編集という仕事の機会を与えてくれたこの会杜で、いい本を作っていきたいと思う。誰かの心をちょっと揺さぶるような、ちょっといい本を作りたい。 |