アナウンサーめざしての
東奔西走

Kさん/早大 ラジオ局内定



 「やっぱりアナウンサーは顔だよねえ」。
 この類のセリフを何百回も耳にしてきた。しかし、私はその常識を絶対うちこわしたかった。高校時代放送部に所属し、アナウンスの技術が全国大会に届くレベルだった私は、純粋に自分の声で勝負したいと思ってきた。そして、昔からの夢であった「アナウンサー」になるため、半年間東奔西走することとなった。

  フジの面接で最悪の幕開け

 1月12日。私の就職試験はこの日のフジテレビから始まった。書類配布と聞いていたのだが、いきなりその場で書類を書かされ面接へ突入した。面接ではなぜアナを志望するのか訊かれた。私は「視聴者とのコミュニケーションを大切にしたいからです」と答えたのだが、「あー、そういう答えは今後やめた方がいいよ」と即答された。今考えるとコミュニケーションという単語自体が同工異曲で、全く自分の言葉になっていなかった。当然不通過。おまけに大雪のせいで風邪もひいてしまった。最悪の幕開けである。
 フジを筆頭に1〜2月は東京キー局のオンパレード。大学の後期試験もあるというのに志望書を書くのは本当に大変だった。何腹も何度も書き直した。その結果、日本テレビとテレビ東京は書類落ちだったが、TBSとテレビ朝日は面接を受けることができる運びとなった。素直に喜んだ。
 2月3日。テレビ朝日1次面接。フジの失敗が頭の片隅にあり、今度はウケを狙った自己PRをした。「元気いいね。声も大きいしね」とほめてもらったが、電話は鳴らない。
 2月5日と6目はニッポン放送セミナーだ。これも書類で通った者のみが対象で、初日はアナウンサーの方々の話を聞く。これが非常に良かった。ラジオの魅力を実感した。2日目は集団面接。3対3で私はトップバッターだった。終始雑談だったとはいえ盛り上がったが不通過。2月24日。TBS1次面接。「あっ、日テレで会ったよねー!!」「テレ朝の最終どうだったー?」この頃になると、キー局の面接会場は他局で仲良くなった人達が多く、私は心細かった。書類に通る人は決まっているということか。原稿読みはしっかりできたがTBSも不通過。あっという間に東京の民放は終わった。
 しかし休む間もなく大阪=準キー局がスタートしてしまう。今年は関西テレビのアナ採用がなかった。毎日放送はまさかの書類落ち。選んだスナップ写真が悪かったかなあと反省。
 2月27日。朝日放送1次面接。事前に家で履歴書を作成して持参する。面接は流れ作業的で、1分間しか話してもらえなかった。不通過。夕方からフジテレビ一般職の1次面接。アナの時と同様、その場で書類を書かされて面接へ。2対2。私のブースは圧迫面接で笑顔ひとつ出なかった。記念受験の友人が受かっていたのに私は不通過。よっぽどフジには縁がないようだ。

  YTVで初めての面接通過

 3月3日。よみうりテレビ1次面接。3対3で起立したままの面接だった。それぞれに異なる質問がとぶ。瞬発的解答力が試されたようだ。私は「最近見た映画は?」「橋本首相をどう思う?」「今日の自分の服装は何点?」などと訊かれた。面接者は終始無表情で怖かった。心配したが通過。面接に通ったのは初めてだった。
 3月17日。よみうりテレビ2次面接。朝一番の集合。待ち時問に原稿(短文)を渡される。2対3。まず原稿読み。そのあと漢字の読みテスト。10個ほどの単語が並んでいたのだが、私は全部正確に読むことができた。最後によみうりテレビに対する質問はあるかと訊かれて終了。漢字が読めたことで満々しい気持ちになった。
 同日に15時から日本テレピ一般職1次面接。アナではないし、志願者が1万5千人という噂を聞いたので、気負わず自然体で面接しようと決めて臨んだ。2対2。この面接での質問は志望書に沿った事項のみ。途中から私にばかり質問が集中したのが分かった。興味を持ってくれたようだ。通過。面接で通る喜びを感じた。
 それから2日後。お昼すぎに携帯電話が鳴った。「よみうりテレビですけれども……」。心臓が爆発しそうになった。通過していた。
 3月23〜25日。よみうりテレビアナウンス講習会。初日は健康診断と面接、筆記。2日目は原稿読み練習。現役アナウンサーの方に指導してもらう。最終日はカメラテスト。本物のスタジオ。フリートークも原稿読みも自分なりに頑張った。結果はその日の夜に自分から合否確認の電話をすることになっていた。不通過だった。帰りの新幹線の中ではアナ講で知りあった仲間どうしNHKの書類のの話で持ち切り。気持ちの切りかえは最重要事項だ。それでもやはり悔しかった。
 3月26日。日テレ一般職2次面接。まだたくさんの入がいた。2村1。私は報道志望だったので、報道のあり方やこれからのメディア等、少し堅い内容で突っ込まれたが通過。
 3月31日。日本テレビ学生フォーラム。集団討論と面接。「十日後に宇宙人が地球に来る」という設定で日本政府の対応策を議論。あまり積極的に参加できず落ちこんだが通過。日テレの一般職の好調さとは裏腹に、名古屋のテレビ局は書類で全滅。北海道は採用なしの局ばかり。改めてアナ試験は厳しいと実感。
 4月5日。日本テレビ筆記。この時点で500人くらいか。企画力や発想の豊かさが問われた。テレビ映像を使ったりしてとにかく楽しかった。結果はなんと通過。信じられない。アナにもなりたいが東京のキー局、しかも今最も勢いのある日本テレビで本当に報道ができたら……と考えるようになった。
 4月9日。日本テレビ局長面接。人事の方にも覚えてもらえるほどの人数になった。7対1。報道志望なのに、バラエティやワイドショー等、全く異なるジャンルについて訊かれた。たくさん笑われた記憶がある。局長面接も通過。次はいよいよ最終だ。
 4月14日。午前中NHKの予備面談。午後九州朝日放送の音声テスト。原稿読みのあといくつか質問がきたので手応えを感じたが、不通過。

  最終通過の電話は鳴らず…

 そして4月15日。日本テレビ最終面核。女の予は12〜13人。こんなに絞られてきたのかと思った。社長を含む面接の方々はひたすら履歴書から質問する。特別変わったこともなく終了。あとは結果を侍つのみ。翌日。翌々日。電話は嶋らない。1週間は待って下さいと言われたものの、今までなら面接したその日に通過の知らせがきたと思うと、いてもたってもいられなかった。
 そわそわしながら4月18日。中国放送のアナ試験で広島に飛ぶ。飛行機遠征スタートだ。内容は「少年の『キレる』ことについて」のディスカッション。とんぽ帰りで東京へ。
 4月19日。NHK筆記である。事前に書類選考で受験者を半分に減らしているのにまだ1万人以上いる様子。広島の疲れからか私は風邪をひき絶不調な状態で受験。おまけに、試験会場で出会った友人から「日テレの内定者って今日呼び出しかかったらしいね」と言われ、完全に日テレとの縁が切れたことを知る。電話を待っていてもこないワケだ。しばらく力がでなかった。しかし、原点に戻って考え、やはり自分の当初からの目標であるアナウンサーを目指そう、夏までは地方局を受け続けようと決心した。
 4月26日。東北放送1次面接。アナヘの想いを心から伝えたのに「君はアナ職を勘違いしている」と断言され不通過。
 5月2日。西日本放送1次面接。アナを別枠にしていないせいか、私だけパステルカラーのスーツ。異常に日立つ。筆記も行う。通過。
 5月5日。北日本放送1次試験。ラジオブースで原稿読みのみ。その場で合否が言い渡される。通過。宿泊費をもらいその日は富山に泊まる。翌日5月6日2次試験。昨日たくさんいた受験者が22人になっていた。筆記のあとカメラの前で原稿読み。昼をはさんで再びカメラテスト。ディベートと自己PRをした。結果は皆が集まったところで発表。私を含め11人通過。
 5月7日、5対1の面接。30分問かなりじっくり質問される。部屋の情景描写の課題が全くできず、「惜しいなあ。昨日原稿しっかり読めてたのに」と言われイヤな予感がする。夕方4時半、番号が張り出された。私の番号はなかった。局をあとにして号泣した。つらすぎた。明日最終だったのに。
 5月9日講談社筆記。5月10日読売新聞筆記。読売は通過し14日に面接をしたが、テレビの一般職の時以上に志望動機がめちやめちゃで不通過。やはりほかの業種ではダメなのだ。しかし私はひとつ大きな悩みを抱えていた。最初から面接をしてくれる局ではいいところまで進むのに、書類選考から始まる局ではことごとく落とされていたのだ。これは悔しくて悲しくて仕方なかった。そこで5月中旬、思い切って別の写真館で撮り直しをした。するとこれが大成功でよく書類が通るようになったのだから、努力は惜しむべきではない。
 5月16日。西日本放送2次面接。また高松へ。4対2。「香川の局でいいの?」「高松のどこが気に入ったか」等、地域的なことを訊かれた。調べた甲斐あり。通過。
 5月18日。熊本朝日放送の面接。通過。
 5月19日。文化放送筆記。事前にテープ審査があり4分の1に絞られていたらしい。気合い入れたが不通過。
 5月23日。熊本朝日筆記。東京支社で行われた。英語がたくさん出た。不通過。5月26日。西日本放送最終面接。アナ志望者は私を含めふたりしかいない。正直これはかなり期待できる。午前中カメラテストで午後面接。もうひとりの女の子は香川(地元)の人で私は東京。ここが大きなポイントだと思ったが全力を尽くした。
 5月27日。東京に戻って静岡放送面接。不通過。静岡県の局も今年はほとんど募集がない。
 5月29日。テレビ西日本筆記のため福岡へ。この局は最初から筆記のため人数が多い。しかもアナ枠は既に決まっているという説もあった。不通過。

  FM受験でトークを楽しむ

 5月30日。静岡FM。新幹線で浜松へ。テープ審査で16人になっていた。テープで通るのは嬉しい。筆記とフリートーク実技。なんとイントロあてテストもあった。洋楽0点だ。その日は熊谷の友人の家に宿泊する。翌日の試験のためにスタンバイ!!
 5月31日。FM群馬。ここもテープ蕃査で20人ほどになっていた。同じく筆記と実技。FM2局に共通していたのは、テストを受けていて心からトークを楽しめたという点だ。のびのびと自分を出せるのが魅力だった。
 6月になった。まず6月4日に2通の封筒が届いた。西日本放送の最終はダメだった。しかもふたり残っていたうちのもうひとりもダメだったらしく、採用ゼロだと思うと複雑な気持ちだった。しかしもう1通の静岡FMは通過。
 6月11日。静岡FM最終。4人残っていた。再度筆記と実技。体が衰弱していてつらかった。面接ではやはりイントロテストの結果の悪さを指摘された。結局最終落ち。
 6月18日。FM群馬最終。5人残っていた。面接は3対1。今までの局と違い、一番最初の質問は私の友人関係等、人間関係の深さだった。実技は原稿読み、フリートークのほか、FAX紹介などもした。自分を素直に出せた面接だった。終始会社の人はあたたかく、とてもいい感触だった。
 6月23日。FM群馬から電話が入った。
 「合格です」
 長かった。フジの試験から半年以上経っていた。しかし、アナウンサーになれたのだ。数々のマスコミを受け挫折した。自分に何が足りないんだろうと毎日悩んだ。書類で落とされ歯がゆい思いをした日々、最終で落とされ立ち直れそうもなかった日々。本当にいろいろなことがあった。しかし、月並みだが夢はあきらめなければ叶うと思う。アナウンサーは花形で難関で……と尻ごみせず、ラジオでもテレビでも自分を最大限出して欲しい。

  仲間と家族に「ありがとう」

 最後にひとこと。全国各地を受験する中で出会った仲間と、活動を支えてくれた家族に心から「ありがとう」。ひとりでは絶対就職活動は乗り切れない。皆さんも周囲と助け合いながら、是非頑張って欲しい。そして、容姿だけで売るのではない、中身の濃いアナウンサーになって欲しい。私もこれからが本当のスタートだ。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。