全国行脚した
アナ受験涙の物語

Sさん/都内私立大 テレビ局内定


 私が就職活動の準備を始めたのは、大学2年生の秋であった。そもそもなぜ、私はアナウンサーになりたかったのか。その理由のひとつは約10年間続けた<新体操>にある。幼い頃から踊ることが好きだった私にとって、発表会などたくさんの人に囲まれて演技をするのは幸せなことだった。「踊ること…自分を表現すること」が好きだったことに加えて、マスコミというメディアが常に社会の多くの情報を有していることも魅力だった。そしてなによりも、アナウンサーなら仕事の中で自分らしさを少なからず表現できる。こうして「アナウンサー」が、私の大きな目標になったのである。
 まだ何も知らない私にアナウンス受験のノウハウを教えてくれたのは、東京・恵比寿にあるアナウンス専門学校だった。その頃入学したクラスのほぼ9割が3年生で、迫りくる本試験に備えて多忙な日々を送っていた。2年生の私ははじめてアナウンス受験の中身を知り、今からやっておくべきことを肌で感じさせられた。やはり、少しでも人より早目に動くことは、マスコミ受験でもとても大切だ。具体的には、自己PRを何十種類も考えたり、新聞の重要ニュース記事を切り抜いてコメントを書く習慣をつけたり、また、時間のあるうちにいろいろなことに興味を持ってチャレンジしたり……。
 そして、あっという間に時は流れ、今度は私自身が受験する季節になっていた。それからというもの、ほとんど毎日アナウンス学校に通い、同じ目標を持つ仲間と共に発声練習や原稿読み、カメラテスト演習、また各局の受験日程の情報交換などをした。
 皆が「アナウンサーになりたい」という希望を持って、必死に努力していた。私自身も、連日連夜、書類作成や面接準備などで時間に追われ、心底もうひとり自分が欲しいと思った。カメラテストの前日は早く寝よう……と思っても、結局朝は「くま」と仲良く会場に向かう羽目になったり……。
 東京キー局の幕開けは、まだコートが手放せない1月だった。

  フジを皮切りに1月試験開始

 1月13日のフジテレビを皮切りにテレビ朝日、TBS、日本テレビとたてつづけに試験が始まった。どうもそれぞれ自分に合う局と、そうでない局とがあるようで、私の場合フジは1月16日の2次カメラテストで敗退、TBSは書類で門前払い……悲しい。その中で順調に進めたのが、テレ朝と日テレだった。
 2月3日、テレ朝1次面接。昨年のセミナーで指導を受けた面接者ということもあり、あまり緊張しないで臨めた。自己PRと原稿読み、通過。
 2月6日、ニッポン放送1次面接。急に「あなたが一番好きな情景を説明して下さい」と言われパニックに。自分自身は精一杯表現したつもりであったが、今考えると支離滅裂。不通過。
 2月9日、テレ朝2次面接。1次は個人面接であったが、2次は集団面接。とにかく原稿読みとCM読みを元気に読んだ。
 2月12日、13日はテレ朝アナウンスセミナー。12日は、筆記試験と健康診断。そして、13日に再度筆記試験とカメラテスト。この日、初めてSPIの筆記試験を受けたが、あまりの難解さに驚き、同時に、自分の数学レペルの低さにショックを受けてしまった。
 カメラテストは、大雪のVTRを見ながらの実況と小物を使ってのフリートーク。「百万円、ミネラルウォーター、モアイ像」、この中からひとつ選択して2分間話すものだった。私はミネラルウォーターを選んだが、やはりこういったフリートークのテーマは、受験する局となんらかの関連があるものが多いようだ。残念ながら、ここで敗退。
 2月17日、日テレアナ1次面接。「新体操はいつまでやっていたの」「試合経験は?」「志望ジャンルは」などと訊かれ、中学時全国大会優勝、高校時インハイ、国体準優勝という話をしたら、なぜそれを記入しないのかとビックリされ、面接時間をオーバーして面接の方が記入してくれた。感謝、感謝。
 そして2月19日、カメラテスト。カメラテストは「だいすき」を反復するような内容の詩を読み、その後自已PR1分間と質疑応答だった。また、日テレは集団でスタジオに入るので、ほかの受験者がどのように受験しているのか見ることができ、非常に勉強になる。しかし、結果のほうはここで敗退。

  FM東京でラジオの厳しさ痛感

 次に受験したのがラジオのFM東京。ここでは、初めからラジオ局の厳しさを痛感した。
 2月17日、1次音声試験となる<パーソナリテイ・オーディション>。まず、スタジオに入って白己PR1分、そして原稿読み(社会一般・スポーツ)、CM読み、キーワードを入れ込んだフリートーク2分聞。原稿読みはそのまま読むのではなく、自分でアレンジして読むというものだった。また、キーワードを使ったフリートークは、「MOF担」から「スマイリー原田」といったさまざまな言葉の中から10個以上を使用してトークする、非常にハードなものだった。それぞれ、その意味を知らなくては話をつなぐことができないので、一般教養および時事テストの内容を兼ねているともいえる。実際、FM東京は特に筆記試験を課していない……。
 大阪は2月28日、ABCから始まった。1次面接は、履歴書を持参してのもので、特に時間指定がなかったせいか、予想以上に待った。面接者もかなり疲れていた様子。不通過。
 3月3日、読売テレビアナの1次面接。立ったままひとりずつ「学生時代で自慢できること」を訊かれ、ほかには志望ジャンルを訊かれただけですぐ終わった。これといって感触がなく、不安であったが通過のTEL。
 3月6日、FM東京の2次音声試験。スタジオでの原稿読みと、掲示された絵を見て、それについてフリートークをするものだった。はっきりいって、全然できなかった。しかし、通過のTEL。
 それから、キー局では少し遅れて3月9日、テレ東1次面接。テレ東は、今年初めてアナウンス職を別枠で採用することになった。そのため準備に手間取るのか、他局に比べかなり待ち時間があった。テレ東はここで敗退。結局、テレ東に内定したのは、キー局でいいところまで残った人たちだった。これで東京のテレビ局(アナ)はすべて終了。あー、早い早い。
 3月15日、名古屋の東海テレピアナ1次面接。東京で行われ、今年は女子だけの募集。面接は少し堅い雰囲気で、他局に比べて時事的な質間事項もあり、勉強していないとすぐ見抜かれそうだった。通過。
 3月17日、読売テレビ2次面接。これをクリアすれば、目標のアナ講が待っている!2対3の集団面接で、原稿読みと漢字読み。他社進行状況を訊かれた際、同じグループにキー局でかなりいいところまで残った人がいたため、アナ講へ残れる自信がなかった。しかし初のアナ講参加のTEL。涙が出るほど嬉しかった。
 3月19日、FM東京の3次試験。驚いたことに女子は早くも3人に絞られていた。学生のほかに社会人もいて、面接は8対1ぐらい。自己PR、志望動機、どんな番組をやりたいか、好きなアナウンサーは誰か、また嫌いな番組とその理由などを訊かれた。さらにいきなり「今から30秒間で、自分の番組だと恩って最初の入りと終わりをやってみて」と言われた。急なことで何も考えてなく、しかも目の前の役員の方にじーっと見られている状況でのトークは大変だった。ひとりでハイテンションでやる空しさといったら……。でも、それと同時に、うまくトークできない自分自身の練習不足を痛感した。そして、もちろん結果はノー。でも、テレビ局受験とはまた違った面で、よい経験をした。
 さて、この時点で東京すべての局がエンド。東京の局は、高嶺の花であると確信していた私にとって、ここからが勝負どころ!次なる目標は、地方局のアナウンサーだった。

  勝負どころ!地方局アナ

 3月22日、東海テレビ2次面接。東京支社で行われ、比較灼和やかな雰囲気だった。1次に引き続いて時事的な内容が多かった。またも、うまくまとめられず文離滅裂状態。なんとか修復したけれどだいじょうぶかなあ……。後日、アナ講通過のTEL。
 3月23日から3日間の予定で初のアナ講、読売テレビアナウンス講習会。
 初日は、健康診断と筆記試験(SPIと作文)。予想以上に難しく、特に数学は半分できたかどうか?の状態だった。
 3月24日は現役アナによるアナウンス指導。午前、午後に分かれて、発声、発音それに社会ニュースやスポーツ原稿読みの練習だった。
 3月25日。最終日。受講者にとって一番大切なカメラテスト、それにフリートークだった。フリートークは、午前中の時間を使って行われ、「自分のふるさと自慢」を2分間。やりたい人からスタートということで、勇気を出して、最初にトライした。そして午後からカメラテスト。課題は、アナ講で指導を受けたニュース原稿を読むものと、「大阪は○○○だ!」の○○○の郡分に好きな言葉を入れてフリートークを2分間するものだった。このテーマは、前日に知らされていたので、考える余裕はあった。
 よみテレのアナ講は、他局の最終とバッティングしていたらしく、途中で辞退する人が何人かいた。カメラテストのあと、そのVTRを見ながら、アナウンサーの方からの講評があった。以上で、講習会は終了!最終面接に行けるか否かの連絡方法は、珍しく、自分から人事部に決められた時間にTELするというもの。手に、汗を握りながらかけたのを覚えている。結果は……通過!3日間、精神的にもかなりハードだったが、そんな疲れも吹き飛ぶ喜び!
 3月26日は、24日の予定だったものを変更してもらった日テレ学生フォーラム一般職の1次面接。

  読売テレビ最終で大失敗

 そして、3月27日、読売テレビいよいよ初の最終面接。最終には3人の学生(女性)が残っており、アイウエオ順で、私が一番手だった。趣昧、特技から始まり、アナウンスの希望職種、動機……と、ここまでは普通の流れ。面接中は思ったほど緊張しなかった。むしろ、ダメもと。思いっきり楽しもうと思っていた。しかし、話が大学のゼミの内容になって、事態は急変。なんだか無理に、自分が勉強してきたことや考えを話そうとして、話がだんだん長くなってしまう。特に、履歴が体育系ということもあり、それを挽回しなくては、という思いが無意識に働いてしまった。そのため、そこから一気に話が深入りして、面接者からも突っ込まれるし、白分でも頭ががちがちになってくるしで、落ち着いて考えられなくなっている自分がいた。その結果、よく考えれば答えられる質問に詰まり、途中で面接官に「すいません」と謝ってしまったのである。そのあたりから、空気が重たい感じになった。自分を、自分以上にアピールしようとしたばかりに、大失敗した最終面接。
 4月2日、日テレ学生フォーラム(一般職)ディスカッション。男女別に6人ひとグルーブで、さすがテレビ局と思わされるようなお題。「もしー週間後に、地球に宇宙人が到米した場合の対応策を考えよ」というようなもので、一瞬えっ?と面食らったが、それは皆同じ。なんとか6人で試行錯誤しながら議論を進めていった。通過。
 4月4日、東海テレビ3次筆記試験とカメラテスト。1次・2次の試験から少し間が空いた3次は本社でだったので、いざ名古屋へ。なんとなく西(先日落ちた大阪方面)へ向かうのは気が重い。しかし気を取り直して出発!この時点で、女性は20名に絞られていた。この日、ちょっとしたトラブルで遅刻寸前になり、会場に着いたら皆が着席していてかなり焦った。筆記はSPIと性格テストで、比較的易しいものだった。カメラテストはスタジオに入り、白己PRと小物を使ってのフリートーク。確か「地球儀、金のしゃちほこ、桜の枝、携帯電話」の四つで、私はそのうちふたつを使って話した。
 しかし、ここで第二のトラブルが起こった。予め、スーツに付けてあったピンマイクを床に落としてしまったのである。緊張のあまり、自らコードを引っ掛けてしまったのだ。ああーなんてドジ。なにごともなくても緊張しているのに、あまつさえマイクを落として、2分間と設定されていたフリートークは、途中からめちゃくちゃになってしまった。あーもうこれで終わったー、と心底ショックを受けていると、サブで審査をしていた方が出てきて「だいじょうぶ。君はどこかに受かるよ」と一言。遠回しに「あなたは落ちましたよ」と言われているようで、さらにショックを受けて帰ることに。
 ところが……人生わからないもので、次の局長面接に進めるという朗報が入った!本当に、どう考えても信じられなくて、ただ、ただ東海テレビの皆様に感謝するだけだった。
 4月8日、東北はY放送1次面接。東京支杜で行われ、3対1でとても和やかモード。通過。
 4月14日、東海テレピ局長面接。本社に行くと、10人に絞られていた。再度カメラテスト兼局長面接。カメラテストの内容は白己PR1分と「私」「二十一世紀」というふたつのキーワードを使っての2分間フリートークだった。さすがに、前回のような失敗は許されないと肝に銘じ、トライした。通過。
 4月17日、東海テレビ最終役員面按。大阪で涙をのんだので、今度こそ!と自分に活を入れる。最終では役員の方が6名ぐらいと、その脇に、さらに10名ほどの審査貴がいた。残っていた女性は5名、そのうち、今年は2名採用するとのこと。あまり自分の思うように話せず、特に、学校の専攻内容およびゼミの話題について、うまくまとめられなかった。名古屋とも残念ながら縁がなく、ここで敗退。

  午前は福岡、午後は北海道

 翌日、4月18日、落ち込んでいる間もなく、北と南の試験が始まる。午前中に福岡放送、午後は、北海道のXテレピ(迷惑をかけてはいけないので、以下XとY2局のみ、匿名とします)。面接前に会社案内のVTRを受験者全員に見せてくれた。通過。
 4月20日、Y放送アナウンス講習会。1次の面接から一気に20名まで絞っていた。この日のスケジュールは、午前中に発声、発音、ニュース読み指導などで、午後からスタジオでのカメラテストだった。カメラテストでは、予め与えられていたテーマ「色」についてフリートーク1分。それに、ニュース原稿読みで、その後、その内容についてキャスター風にコメントを添えるものだった。通過。
 4月23日、Xテレピ音声試験。本当は、4月20日に東京で行われた試験に行くはずだったが、Y放送のアナ講と重なったため、本社での受験をお願いし、無事承諾を得る。よかったー。
 試験内容は、ラジオスタジオに入ってのニュース原稿読み、CM読みとパネルトーク。パネルはさまざまなジャンルのものがあった。私は長野オリンピックのジャンプ団体選手とモーグル選手のパネルを使ってやった。カメラがないぶん、緊張もほぐれるのではないかと思ったが、やはり、どこかに力が入っていたらしく、面接の方に「緊張のせいか少し声が高かったね」と言われた。心配だったが、無事、通過の連絡!
 翌4月25日、Xテレピ筆記試験および、グルーブディスカッション。筆記はオリジナルの一般教養・時事問題と英語。またしても、自分の英語力のなさに、自己嫌悪に陥る。もう、本当に落ちたであろうとこの時点で確信した。でも、少しでも望みがあればと、次のグループディスカッションヘ。今回、珍しくアナ職と一般職合同で行った。ひとグループ10人ずつで、お題は「バタフライ」。その時期、どうしてもナイフ事件に話題が片寄りがちだったが、皆で協力して話を広げていった。
 これを抜ければ最終役員面接!でも、筆記のできが……。落ち込みそうになったとき、思わぬ朗報!いよいよ最終に行けることに!
 4月26日、東北放送1次面接。東京支社で行われ、質問事項も他社と同様。でも、Y放送に残っているのがわかると「うちとどっちがいい」というような際どい質問が出た。なんとか乗り切り、通過。
 4月27日、福岡放送2次面接および筆記試験。福岡本社で行われ、午前中に筆記試験で午後は面接。面接は、原稿読みとパネルトークで、女性は、川島なお美のエスカレーター事故の写真。男性は、松井選手。考える時間がほとんどないので、かなりアドリブ的要素を求められる。通過、最終面接へ。
 5月1日、Y放送局長面接、筆記試験およびカメラテスト。既に10人に絞られていた。カメラテストは10人全員でスタジオに入り、ひとりずっ今日の出来事などを話した。その後、「麦飯炊くような人」「若い女の寺参り」の意昧をそれぞれに答えさせる。はっきり言って皆わからず、それぞれ工夫して、説明していた。
 局長面接は7対1くらいで、和やかな雰囲気の中で進められた。通過、最終面接へ。
 5月6日、東北放送筆記試験とカメラテスト。仙台本社で行われ、筆記はSPI、作文、性格テスト、英語と、かなりハードだった。カメラテストでは、ニュース原稿読みと、小物を使ってのフリートーク。ラ王のカップ麺と新発売の発泡性飲料水だった。スタジオが暗かったせいか、とても厳格な雰囲気だった。フリートークは笑いをとれたが、「英会話はどの程度できるか」と1次面接にひきつづいて訊かれた。どうも今年は、英諦力を重視しているらしい。今の私では御希望に添えず、敗退。
 5月7日、いよいよ私にとって3度目の最終面接。福岡放送とY放送が重なり、本当に最後の最後まで悩んだが、Yに行くことに。面接では「福岡放送を蹴ってまでうちにきた理由」を訊かれ、「このあとに控えている局はすべて断ってくれるか」、そして最後は社長さんにも「もしうちで内定を出したらきてくれるか」「あなたが他局をこれ以上受けないことを信じる」と、何度も念を押された。
 そして5月8日、午前中に電語が鳴った。「Y放送アナウンサー内定!!」。本当に三度目の正直。最終面接3社目で夢が現実へと変わったのである。
 5月12日、Xテレビ最終役員面接およびカメラテスト。最終には女性4名、男性2名が残っていたが、私と、もうひとりが辞退したため、女性は2名に。
 ところが……。


  両局内定で悩み抜く

 当日の朝、自宅のTELが鳴った。人事部からで、ホテルにチェックインしていないのがわかり「どうしたのか」とのこと。9日にFAXで辞退の連絡を入れたが、担当者不在で見ていなかったと言う。そこで改めて、お詫びと辞退に至るまでの事情を説明した。しかし先方は、急なことで驚いたのと同時に大変困ったと言う。私はY放送との約束を遵守するため、断り統けた。しかし結局、辞退の挨拶をするためにXテレビ本社に伺うことになった。
 午後2時半、現地に到着。その日、とても日差しが眩しかったのを覚えている。空港から本社に向かうまで、さまざまな思いが私の頭を駆け巡った。就職活動の最後を締めくくるためにも、キチンと挨拶してこよう。――本杜に着くと、人事の方が出迎えてくれた。「よく来てくれました」
 応接室に通され、すぐに総務局次長、人事部長、アナウンス部長がみえられる。私の意志の堅さとお詫びの気持ちを伝えるといくらか理解して下さった。しかし15分20分と経つうちに、「やはりもう一度考え直してもらえないか」というような話が出てきた。最終試験がすべて終わった今も、社長以下、役員全員が待機してくれているという。そして「あとは、あなたの決断次第です」と……。こんなにも、私のために誠意を尽くして下さっている会社、そして情熱を傾けて下さっている皆様方に、申し訳ない気持ちと、なんて私は幸せ者なのだろうという思いで一杯になった。同時に、こんな大事な決断を、今すぐ、私だけの独断で決めていいものか……。誰にもなにも言わずに飛び出してきた自分がとんでも
ないことをしてしまっているようにも感じる。でも、一度しかない自分の人生。チャンスは待っていて来るものではなく、自分自身で切り開いて行くもの。この責任は、すべて自分自身でキチンととるべきだと強く自覚して、私は決断した。慌ただしく、すぐにカメラテストと、最終面接が行われた。カメラテストの原稿読みは、全くといっていいほど、下読みをする時間がなかった。「地ビール」「緑茶」「カップ麺」を使ってのフリートークで私は地ビールを使ってやった。結果、内定の通知。信じられない気持ちと、今後のなりゆきを考えるとそう喜んでいられないという気持ちと……。
 現地に1泊し、翌日健康診断。その前に、早速「誓約書書き」。本心は、まだ迷っていた。なんだか、自分の気持ちとは関係なく現実の事態がどんどん進行していくようで、戸惑った。でも、これでよかったのだと納得する方向に自分をもっていくよう努めた。その日、羽田に着くや否や恩師に電話を入れ、無理を言って、お会いした。事情を報告し、本当の意昧で、最終決断をした。
 帰宅してすぐに、今度はY放送宛に内定辞退の手紙を書き連ねた。一度は、同じような手紙を、Xに出したはずなのに…。本当に、人生は波乱万丈、なにが起こるかわからない。速達で13日に送ったので、14日の午後には届くであろう。それを見計らい、重い心情を抱えながらY放送にTEL。人事部長と話をすることができた。ただただ、お詫び申し上げる外なかった。ところが「今、もうそちら(東京)にうちのアナウンス部長が向かっていますので、会ったら話をして下さい」と言われてしまった。だが、私はその日、どうしても断れない用事があった。やむをえず、自宅にTELして白分の気持ちを伝え、対応をよろしくと頼む。そして、夜に帰宅。やはり、アナウンス部長が自宅まで訪ねてきて下さったとのことだ。なんともいえない気持ちだった。今まで受験してきたどの局よりも親切、丁寧に対応してくれた会杜だけに、余計に、その方々に迷惑をかけている自分が嫌だった。自分の人生だからと、思い切って踏み切ったものの、あとの責任は大きい。考え、悩み抜いた挙げ句、翌日、朝一番でY放送に挨拶に行くことに決めた。両親も私の意見に賛成だった。誠意を尽くしてくれた会社には、自分自身もキチンと最後まで誠意を尽くさなければ、と思ったからだ。しかし、今回は敵地に乗り込んでいくようなもの。心は終始、揺れていた。

  とめどなく涙が流れた

 5月15日、午前中、Y放送到着。本当は、この日に、健康診断と「誓約書書き」があった。急に訪れた私の姿を見て、アナウンス郁長は驚かれたであろうが、すぐに応接室に通され、取締役員、人事部長、アナウンス部長が、多忙にもかかわらず時間を割いて下さった。ただただ、泣いて謝る私を見て「そんな涙は見せないで下さい。確かにあなたの選択には、驚きましたし、納得はいきませんが、あなたが決めたことだから」と、また「でも、あなたひとりの決断が、多くの人に迷惑をかけてしまうということだけは、理解して下さい」と、温和に語りかけてくれたのである。「あなたがこうしてキチンと来てくれなかったら、私どもの間ではもっと納得いかないまま終わっていたと思う。もうこうなってしまった以上、私たちの目に狂いがなかったという意昧でも、Xだけでなく、全国に通用するようなアナウンサーになって下さい」と声をかけてくれたのである。私はもう、何も返す言葉がなく、ただただ、頬に涙が伝わった。
 こうして私の就職活動は幕を閉じた。忠い返せば、幾多の「山と谷」があった。文中では記さなかったが、受験中にももうひとつ、大きな「谷」が私にはあった。それは、初めて最終面接まで進めた大阪・読売テレビと次の名古屋・東海テレビの最終結果通知のドラマである。
 最終の結果通知というのは、各局さまざまだが、たいてい電話通知である。特にアナウンサー試験は、結果がすぐにわかる。両局の合否結果は、東京へ帰る途中の新幹線車中で知った。いかなる運命の悪戯か、内定者はいつも私の隣の席にいた。私にとって、それから東京までの道のりは長かった。でも逆に、それがあったから、今度こそ私も!と頑張れたのだろう。それに、二度も同じ苦い(?)経験をするなんて、なかなかの確率でないとできない貴重なもの!とても思い出深い、私だけの密かな「新幹線事件」だった。

  「笑顔」と「自信」が大切

 長々と綴ってしまったが、私の記録はこれまで。最後に、「アナウンサー受験に大切だと思うこと」。これを、まだ未熟な私ながらアドバイスしたいと思う。やはり、言葉で言うのは簡単だけれど、絶対に必要なのは「元気に明るく」。「笑顔」は大事! 大袈裟なくらいでもいいと思う。さらに、今まで生きてきた自分自信に、精一杯「自信」を持つこと! でも、これは決して表に出てくる自信過剰ではなく、自分の内に秘める力を信じることなのだ。
 私も、どんなときも自分自身を信じるように心がけてきた。たとえ、うまくいかないときがあっても、それは、自分を一回り成艮させてくれるための、良い試練なのだとプラスに変換していきたい。
 それでも、受験中はきっと孤独感、憂鬱感に苛まされることもあると思います。でも、自分に負けず、諦めず、目標達成まで、頑張って乗り切っていってほしいです。努力をすれば、本当に、自然と運は自分の前に開けてきます。
 辛くても、ひたすら活動を続けた人に、最後は「幸運の女神」が微笑んでくれると信じています。――皆さんの「夢」が叶うことを願って……。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。