ニュースを伝える人になりたいという思い

Mさん/北海道新聞社内定


「ニュースを伝える人になりたい」

 漠然とした感情は小学生くらいから抱いていた。そのきっかけとなったのは、『日航ジャンボ機墜落‐朝日新聞の24時』だった。実家の本棚にあった母親の本だったが、表紙のインパクト(ジャンボ機が尾根で大破している写真)につられて手を伸ばした。そこに描かれる記者たちの奔走。情報がまったく手に入らない状況で、いかに情報を手に入れるか。

 中でも、ジャンボ機の乗務員として搭乗していた弟を亡くされた記者のエピソードが心に残った。弟を亡くすという辛いときでも、報道のために駆ける。それはただ、「情報を知りたい」と思っている人がいるから。そのひたむきな姿に、私は胸を打たれたのだった。

 いつも何気なく手に入れる情報。その裏側には膨大な努力がある。そして情報を得るために誇りを持って働いている人たちがいる。そのとき私は、この「記者たち」にあこがれの心を抱いた。

 その漠然とした感情が「記者になって世の中に情報を伝えたい」に変わったのは、東日本大震災のときだった。茨城でも震災の被害は大きく、私の地元も津波に襲われたし、我が家を含め、実家のまわりには損壊した家が非常に多かった。しかし、震災から3日後の2011年3月14日、茨城県内で計画停電が実施された。私は「被災地なのになぜ」と怒りを覚えた。県知事が記者会見で怒りをあらわにしたことをきっかけに、世論からの批判が相次ぎ、東電は茨城県を計画停電の対象範囲から除外した。初めから被害の状況が伝えられ、多くの人々が被害状況を知っていたならば、被災地での停電は実施に至らなかったのではないか。しかし、茨城は被害程度の小ささや見た目にみえる被害の少なさから切り捨てられることになった。

 人の生活を守るためにいかに情報が必要なのか痛感した瞬間だった。情報が届かなければ不利な状況に置かれても捨て置かれたままになってしまう。人の生活に密着し、それを発信していくメディアの仕事に就きたいと真剣に考えるようになったのはこのころだ。

 とはいえど、「マスコミ対策」などというものはほとんどやってこなかった。対策らしい対策をはじめたのは、文化祭実行委員会を引退した3年の11月以降だった。

 とりあえず、マスコミ志望者のバイブルと聞く『マスコミ就職読本』を購入。なるほど筆記試験のウェイトが高くてそこで一通り落とされるのか、ならば筆記試験対策をしなくては…と考え『マスコミ入社過去問題集』、『最新時事用語集』、『新聞ダイジェスト』(半年分)を購入。大学受験で筆記試験対策には慣れていたので、それらを使って勉強を行うことにした。

 まず当時の自分は圧倒的に知識量が足りていなかったので薄めの『時事用語集』を繰り返し読んで、その時期に話題になっていたテーマ(「集団的自衛権」や「消費増税」、「アベノミクス」など)についての現状と論点を頭に入れた。そのうえで付録の時事問題集に取り組んで、基礎体力をつけていった。そのあと、『新聞ダイジェスト』を用いてさらに知識を深める。『時事用語集』ではさらえない最近の状況をつかみ、さらに付録の時事問題対策に取り組む。わからない問題は『新聞ダイジェスト』を見直して復習を行い、間違えた問題には再び取り組む。そして3月の最終週には『過去問題集』に取り組んでみる。さすがに去年の時事問題はわからないものがあるが、一般常識的な問題なら解けるようになっていた。マスコミの筆記試験は難しいといわれているものの、それは「無茶な問題か?」といわれると決してそういうわけではない。あくまでも難易度が高いだけで、しっかり学ぼうと思って勉強すれば問題ないというレベルだと思った。

 時事問題についてはそれほど難なく対策を行うことができたが、本当に大変だったのは作文の対策だった。「論文」や「レポート」を書くことには慣れていたが、「作文」を書くことには慣れていなかったため、はじめはどのように書けばよいのかさえよくわからなかった。そこで、OB訪問で知り合った記者の方に協力を得て、何度も推敲(すいこう)に付き合っていただいた。お忙しい中にも拘わらず直接会ったり深夜まで電話で指導してくださったりしたその記者の方のご指導なしには私は作文に自信を持つことは出来なかったと思う。厳しい言葉を幾度もいただきながらも、最終的には「これならいいと思う」と言っていただける作文のネタを作り上げることができた。

全国紙敗退でもう一度何をやりたいのか自問

 4月に入り、いよいよマスコミの就職活動が本格化する。

 私の当初の志望は全国紙だった。特に共同通信社を第一志望に据えており、説明会参加やOB訪問などで企業理解をしっかりしていたつもりだった。そして臨んだ筆記試験。そこそこ手ごたえをもって終えたはずが、翌朝「みん就」をみると「午前3時にメールで通過連絡がきていました」と……何度みても自分のメールボックスにそのようなメールは来ておらず、筆記で敗退。「あんなに頑張ったのに筆記落ちなんて、もうどこもダメなんじゃないか」。悔しさとショックで翌日の読売の筆記試験に行くべきかどうかさえ迷った。

 どうせ受からないと思いつつ一応受験したところ、まさかの筆記試験通過。難関といわれる読売での筆記通過がはずみになり、以降の筆記試験には自信をもって臨むことができた。ちなみにこれ以降10社弱筆記試験を受けたが、筆記落ちした企業はなかった。

 しかし読売の筆記に受かって浮かれるのもつかの間、あっさり一次面接で落とされる。ここにきてようやく「自分は本当に全国紙志望なのか?」ということに思い至る。そもそも朝日新聞や毎日新聞についてはやりたいことが思い浮かばずESさえ提出していない。共同も読売も落ちてぽっかりと時間が空いた期間に、自分を見つめ直すことができた。全国紙は知名度から受けていたのではないか? そう思い至り、本当に自分がやりたいことは何かを考えると、軸は二つあった。「大学で研究した国際関係について生かしたい」、そして記者になりたいと思ったきっかけである「地域に密着して報道を行いたい」。この二つを達成できるのはどこかと考えた時に、ブロック紙と一部の地方紙というのが私の就活の志望先になっていった。

一番大事なのは「なぜその会社なのか」

 「地方に寄り添いながら国際関係の記事も書く」ことができる新聞社である北海道新聞社(北方領土問題)、新潟日報(日本人拉致問題)を第一志望として選考に臨んだ。ほかにもブロック紙や地元の地方紙など、合計10社を並行して受験した。

 ブロック紙・地方紙の採用試験は4月中盤から始まる。4月12日の道新の筆記試験を皮切りに、毎日のように選考がある忙しい日々を送った。ただ連日選考があるのみならず、地方紙は情け容赦なく一次試験から本社に来させるところが多く、移動が非常に多くなる。4月の末にはダブルブッキングしたときもあった(午前中に都内で道新の面接を受けてから、午後は栃木県宇都宮市で下野新聞の筆記試験)し、忙しさのピークだった5月2週目だけで東京(中日筆記)→新潟(新潟日報面接)→東京(ゼミのため帰京)→茨城(茨城新聞筆記)→東京(道新面接・時事通信筆記)と移動した。かなり大変だったが、高速バスや漫画喫茶を利用することでリーズナブルかつ割と快適にやりきることができたと思う。

 5月2週のピークを過ぎると、忙しさがひと段落した。つかの間の休息のあと、面接が本格化する。

 地方紙受験において必ず問われるのが「なぜ○○新聞なのか」ということだ。出身がそこならばゆかりのある土地だからということができるが、全く縁もゆかりもない土地ではそうもいかない。だからどうしても「その都道府県では今なにが注目・問題視されているのか」「その新聞社はそのトピックについてどのようにアプローチしているのか」といったことを調べる必要が出てくる。自分の場合、「北海道=領土問題」、「新潟=拉致問題」ということは決めていたが、それに対して各社がどのようにアプローチしているかはよくわかっていなかった。そこでまずは文献調査を行うことにした。都内であれば広尾の都立図書館に行くとすべての全国紙を過去3カ月分読むことができる。また、新聞協会賞を受賞した記事は往々にして本になっている。それを取り寄せて読むのもまた一つの手段であろう。

 また、自分はそのほかに北陸の新聞社も受験していたが、この土地については今なにがホットな話題なのかさえ知らなかった。そこで私は就職活動の合間を縫って0泊3日で北陸を訪れ、地元の人に話を伺うことにした。地元の個人経営の居酒屋に行って、その場にいる地元の方にお話を聞くというのが、私が採った手法である。そしてその中で、東京ではあまり扱われない北陸新幹線のもたらす負の面があるということをつかむことができた。面接でも、こうして自分で調べ上げた情報を使って「なぜその会社なのか」を伝えた。

 5月20日に新潟日報の最終面接、24・25日に北海道新聞の最終面接があった。どちらも非常に志望度の高い企業であり、「ぜったいに決める」と意気込み、記事のスクラップや本を熟読して面接に挑んだ。

 新潟日報の面接では役員の方たちから「拉致問題について関心があると書いてあるけど、拉致問題の解決のために報道ができることって何?」とこれまでに幾度か聞かれた質問の後に「新潟日報社が拉致問題報道のために海外で活動を行っているか知っている?」と聞かれた。このことについては知らなかったので、正直にその旨を伝えたところ、詳しい内容を教えてくださった。知ったかぶりせずに素直さを見せることも時には吉なのかな、と感じた。「5月下旬以降に順次結果はお知らせします」と伝えられ、その日は終わった。

 そして2日にわたる北海道新聞の面接。1日目の個人面接、2日目の記事要約と集団討論と続く。個人面接は、「それでは今日の新聞の記事で気になったものとその理由を」と尋ねられたことから始まり、「北方領土問題について日本がすべきことは?」「ESに書いてある以外にやりたいことってある?」など。一つ一つを掘り下げられるというより幅広く聞かれ、つつがなく答えた。面接者にぐるりと囲まれるような配置だったのではじめは戸惑ったが、リアクションを取りながら聞いてくださったので必要以上に緊張することはなかった。夜はホテルに泊まっていたほかの受験者(道外からの受験者は会社が用意したホテルに泊まることができる)と一緒に飲みにいった。ライバルではあれど同じ報道を志す者。「この人たちと一緒に仕事がしたい」と、ここでまた道新の志望度が高まった。

 やり残したことはない、落ちたら落ちただと思いながら東京に戻って結果を待つ。そして火曜日の夜、北海道新聞から内定の通知。「ずっとなりたかった記者になれる」。大喜びで両親や友人に連絡を取っていた。新潟日報は最終面接からしばらく連絡がなかったため「落ちたか…」と思っていたら約1週間後に電話が。「北海道新聞の選考が土日にあると聞いていたから電話しなかったんだけど…」という前置きをおいて内定の通知をいただいた。選考でばたばたしているのを待ってくださるという心遣いがとても嬉しかったが、道新から内定をいただいていたので辞退した。

 マスコミ志望の方は「何が何でもマスコミに行きたい!」という方が多いのではないだろうか。自分もその一人だったため、基本的に新聞業界以外の就活には力を入れなかった。

 ただし新聞社の就活は始まるのが遅い。特に地方紙志望となると内定が出るのがものすごく遅くなる。まわりの人たちが4月1週目で内定をもらっているときに自分だけ就活を続けるのはなかなかつらいものがある。自分は無内定のまま新聞社にチャレンジするのが怖かったので、選考が早いITコンサルを志望し3月中に内定をいただいた。先方もこちらがマスコミ志望ということで結果を待っていてくださった。内定辞退前提で考えるのは良いことではないが、「来年行く場所がある」という状態で就活を続けられたので少しは楽な気分で選考に臨むことができた。

 就職活動は大変だと思うこともあると思うが、こつこつ続けていくことで最終的には落ち着くところがあるではないかと思う。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。