第一志望の会社に二年続けて落ちたが……

K君/広告会社内定


 第一志望は特撮映画の東映だった

「俳優になろう!」とか「板前になろう!」とか、一念発起してその道を志す人はいても、同じ温度で「就職しよう!」「社会人になろう!」と思って就職活動を始める大学生って、殆どいないんじゃないんだろうか。高校を選んだ時のように、大学を選んだ時のように、周りのみんながそうするから、割と右向け右に、やや受け身気味に就職活動を始める学生がマジョリティのはずだ。2011年冬、部活動3年目のシーズンを終えた自分も、周りに遅れること数カ月、ようやくそのうちの一人になった。

 第一志望はすんなりと映画会社の東映に決まった。日曜朝のヒーロー番組で有名な東映であるが、実は自分は部活動の他にも趣味で特撮研究サークルに所属しており、同社のコンテンツを参考にして映画を撮ったことも何度かあった。他にもこのサークルではヒーローショーを行うこともあるのだが、とにかく自分としてはこうした映画やヒーローショーなど、自分が「面白い」と思うことをカタチにして、それが会場にウケけた瞬間、刺さった瞬間というのがもうたまらなかったので、そんな事を自分の仕事にしたいと思った。

 そうすると志望業界は自然にテレビ・出版などのマスコミ系や、映画・ゲームなどのエンタメ系がメインになってくる。そしてその中でもヒーローと言えば、ということで東映が第一志望の座に落ち着いたのである(ちなみに本音を言えばウルトラマンの方が好きなのだが、円谷プロダクションは新卒採用を行っていなかった)。

 昔から、文章を書くのは好きだった。周りが「ESで落ちた」という話題で盛り上がるのをよそに、自分の書いたエントリーシートは中々の打率で通過していく。とにかくエントリーシートは、どうしたらこれを読んでいる人事に「こいつ面白い。会ってみたい」と思ってもらえるかを意識して書くことにした。

 しかし世の中そううまくはいかないもので、ESを通過した十数企業も、面接が始まるとみるみるうちに落ちていった。ESと同じで、「面接官を楽しませれば勝ち」だろうという根拠のない確信があり、企業研究や対策はほとんどしなかったのだ。

 博報堂の1次面接では、ESの課題でもある「生活者の動向を分析して新しい流行りを生み出す」というものについてその概要とプランをプレゼンするよう求められた。

 私はその時家でのほとんどの時間をコタツの中で過ごしていたので、「コタツをそのまま装着して外出できれば最高に快適だ!」と思い付き、「汎用移動式コタツヌクヌクウォーカーくんZ」という商品をプロモーションしたが、面接官の「アウトドア用品でこういうの、あるよ」の一言で撃沈。 

 4月第2週には片手で足りる持ち駒

 4月第2週になる頃には片手で足りるまでに減ってしまった持ち駒だったが、本命の東映と、某大手広告代理店だけは順調に選考が進んでいた。東映の1次面接は学生4対面接官2の集団面接。東映の本社ビルには高校生の時に会社見学に来た時以来で、とにかく緊張しながら待ち時間を過ごした。

 そしていよいよ自分の番が回ってくる。初めての面接の時の何倍も緊張したが、所定の位置についた時、ふと面接官のiPhoneケースが目に入った。私が以前から欲しかった、その年に放映していた仮面ライダーオーズのケースで、それを目にした瞬間テンションは一気に最高潮に達し、アピール時間こそ少ないものの、熱意は十分に伝えた。結果は通過。

 続く筆記試験も、相変わらず一般常識は出来なかったが、英語と最後の作文問題を少し変化球にしたことが功を奏したのか、通過。

 この頃、広告とは一体なんなのかよくわからないまま受けていた大手広告代理店も、面接官との相性が良かったのか1次に続き2次面接も通過し、実質最終と言われる3次面接を次に控えていた。

 勢いづいた私であったが、東映の3次選考で就職活動の厳しさを初めて思い知った。その日は他の選考の都合で1日の1番最後の枠に面接の予約を入れていた。先輩も経験したことのない前人未到の3次選考は1対1。とにかくテンションを上げて望んだ。しかし、何かがおかしい。会話が盛り上がらないというか、とにかく噛み合わない。始まってすぐに違和感に気が付いた。面接官が疲れているのだ。長い面接の、最後の最後ということで、集中力がなく、話を右から左へ聞き流されているような気さえしてくる。

 面接において時間帯の選択がどれほど重要かをまざまざと思い知った。面接の後半、こちらが話しているにも関わらず、面接官が退出していく学生を目で追っているのを見た時、自分の敗北が確定した。そんな気がした。家に帰宅し、「面接 時間帯」と検索エンジンで調べてみると、出るわ出るわ……。「比較対象のいない一番最初の枠が良い」「次点で昼の休み時間明けの枠が良い」「最後の枠は面接官の疲労があり最悪」――どれも、標準的な就活生にとっては当たり前の事だったようだ。結局不合格に終わり、就職活動を舐めてかかっていた自分が馬鹿みたいだった。

 続く大手広告代理店の3次面接が、自分にとっては志望業界の最後の持ち駒だった。当日は筆記試験から始まり、内容は「いじめを解決するプランをA4一枚でまとめろ」というもので、それをそのまま面接でプレゼンする、というものだった。ネタ勝負をモットーとしていた自分はそれまで一度も描いたこともない漫画で「いじめは人の性。なくしようがないならイジメられ用アンドロイドを作りましょう」という内容をまとめ、プレゼンした。が、面接官の反応は「発想は面白いんだけどねぇ〜……」と今一つ。その後挽回しようと試みたが、「あなたが思うヒーローにとって絶対に必要な条件とは?」という質問に対して「絶対に諦めない気持ちです」と答えた所、「そう?僕は絶対に勝つことだと思うなあ」と返された。

 柔軟性か意志の強さのいずれかを見られているのだろうと思い、一瞬逡巡したが、自分に正直に、「そういう考えもあると思います」と返した。しかし、今になって思い返させばそれが裏目に出たのだろう、この会社も3次選考で散ることになってしまった。

 まさかの内定取り消しで就職浪人を決意

 ここでとうとう、マスコミ、エンタメ業界の持ち駒は一切なくなってしまったが、並行して受けていたIT企業から内定をもらう事が出来、なんだかんだこの会社に行くことになるのかな、その時はそう考えていた。

 IT企業は正式な返事は1カ月待ってくれるということだったので、言われるままにその1カ月間は一切の就職活動を止め、色々な人と話すことにした。結果的に、その会社にお世話になる方向で返事を固めていたある日、内定先から一本の電話が届いた。その電話のお陰で、自分の就職活動は大きな転機を迎えることになる。

「〇〇さんはマスコミが気になるとおっしゃっていましたが、一方でどうしても弊社に入りたいと言う学生もいます。今の状態のまま入社して頂くのは双方にとっても良くないことだと思いますので、今回の話は無かったことに……」

 突然の内定取り消しだった。理由は納得するに足るものだったが、なんと理不尽なことか!しかし都市伝説でしか聞いたことのないこの事態を、自分はむしろチャンスだと捉えた。これで就職浪人するに足る理由が出来た、と。

 それからは秋採用も含めた一切の就職活動を打ち切り、部活動に励んだ。部活動をしながら来年の就職活動の準備を始めるといったことは、出来ないと思ったし、する気も無かった。12月で部活動を引退し、自分の第二次就活大戦は2013年1月から始まった。

2年目の就活はテレビ局のESから

 2年目は、年明けにキー局のESを書きまくることから始まった。内容が面白く、とても書きがいがあるものだった。通過率は好調を誇り、また面接も、2つ目に受けた日本テレビが4次選考まで進んだ。

「今年はイケる!」そんな言葉が頭をよぎるようになっていった。また就職活動も2年目ともなると自分のやりたい事の像が志望企業ごとに明確化されていき、テレビ局に入ったら海外特派員となって自分の目で見たものを自分の言葉で伝えたいと考えるようになっていた。そもそも私は小学生時代を途上国で過ごしていたので、海外志向も強い。だから、記事を書いて、海外にも行ける特派員は一石二鳥だと考えたし、4次選考でもそれを伝えるつもりでいた。前半20分は1年目のように世間話が盛り上がる。しかし後半、「何故特派員なのか」という質問を皮切りに、話は一気に仕事の方に流れていく。まとめていた先述の理由を面接官に話すと、「ではどのような記事が書きたいか」という質問が返ってきた。私は、自分が途上国に住んでいたこと、そこで知った途上国の現状を自分が記事にすることで、より日本人にリアリティを持って伝えられることを熱弁した。しかし、面接官から返ってきた次の質問に、私は言葉を失った。「君の言うリアリティって何?」

  「リアリティ、リアリティ、リアリティ―」 ひとつの単語が脳内で何度も木霊する。リアリティってなんだ、そんなのこっちが聞きたいくらいだ。その場しのぎで「肌感覚です」と答えた瞬間、面接官の熱が、それまでの盛り上がりが嘘のように一気に冷めていくのを感じた。

 不合格通知を受けて一気に自己嫌悪に陥り、それからしばらくは面接でミスをしないよう慎重になりすぎ、手応えを得られないまま落ち続ける日が続いた。4月になる頃にはテレビ局と出版はあらかた落ちていた。自分でも気付かない内にすっかり身に染み付いた負け癖は、この時にはもうどうしようもないくらいに深刻になっていた。

 東映の1次面接は、相変わらずの集団面接だった。ただこの年は前年の反省を生かし、面接はほとんど全て朝の一つ目の枠か昼の一つ目の枠に入れるようにしていた。だから、その日の面接は、前年以上に時の運を味方に付けていたはずだった。一つだけ、去年と違っていたのは自分自身で、面接の最中はひたすら焦った。去年に比べて面接官の食いつきが悪い。自分自身に数え切れない程の違和感を感じながら、東映の1次面接は終わった。

第一志望の会社に2回も落ちた

 そして1週間後、結果発表の日。この日は大学の後輩と一緒に読売新聞の筆記試験を受けていた。ちなみにこの後輩も別の日程で東映の面接を受けていた。自分はと言うと、試験中から、東映の結果だけがひたすら気になっていた。だから昼の休憩時間になった瞬間に、部屋を飛び出して、マイページにサインインした。後輩も横で一緒に結果を見ているようだった。なんというか、自信が無いときほど人は見えない何かにすがろうとするのか、本当は結果なんてわかりきっていたのだが、その時も「なんだかんだ」を期待せずにはいられなかった。だから、次の瞬間、自分の目に「残念ながら」の文字が飛び込んできた時、勝手に体が崩れたのも、2年間就職活動をやってきて、初めて本気で「辛い」と思ったのも、当然といえば当然だったのだと思う。

 とにかく、自分は第一志望の企業に落ちた。それも、2回。しかも、2回目の方がより結果を出せなかった。最悪だ。でも、本音を言えば、驚くほどすっきりした気持ちでもあった。だって2回も落ちたら本当に縁がなかったということなのだ。それに、第一志望に落ちたのだ。裏を返せばこれより下はないということだ。そう思った瞬間、なんだか一気に体が軽くなった。

 それからは東映のことは一切忘れ、既に相当減っていた持ち駒の対策に精を出した。吹っ切れたというか、なんだか物凄く気持ちが楽で、それまでの負け癖が嘘のように面接を突破していった。守りを捨て、良い子を演じるのも止めた結果、2週間後には昨年同じく散った大手広告代理店の実質最終面接を受けることになっていた。今度こそ、リベンジだ。

 当日は前年に引き続き、前半戦で筆記試験を受けることになった。制限時間が厳しかったので内容はお粗末だったが、なんとか書き上げたといった感じ。しかしむしろ重要なのは次の面接だ!「今日遅刻してきたらどうするつもりだった?」というわけのわからん質問には「土下座して謝ります。それでも無理ならヒーローショーで鍛えたアクションを駆使して、スライディング土下座やジャンピング土下座など、数々のアクロバット土下座を披露します」と、本当に土下座しかねない勢いで訴えた。もう守ることなんて一切考えなかった。結局、自分をブチ明けるしかないのだ。自分で勝負するしかないのだ。だから、リベンジを果たしてこの会社から内定を貰った時、自分をようやく認められた気がして、してやったり!という気分で胸が一杯になった。マスコミ初内定は、一年前に落ちてしまった企業からだった。

 その後も就職活動を続けた。どれも本当に素晴らしい会社だと思ったし、それぞれ業種も少しずつ違っていたからだ。結果的に、就職活動自体は6月下旬に終わり、内定は計5つ頂けた。そして今、その内の2つを辞退して、残り3つの内どの企業に行くか毎日頭を悩ませている。周りには「また内定取り消されるぞ!」と会う度にどやされるし、自分でも本当にその通りだ。馬鹿だなあとも思うが、こういう性格だから仕方ないと割り切っている。自分に正直に生きることが大事だと思う。それで取り消されたらその時はその時。『マスコミ就職読本2016』に体験記を書けるよう、3度目の就職活動をネタに溢れたものにするだけである。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。