中高時代励まされたテレビの世界に

Sさん/テレビ東京内定


 なんでマスコミじゃなきゃだめなんだろう。何度も、自分に問いかけた。マスコミ就職なんて茨の道から何度逃げ出したいと思っただろう。それでも、やっぱり諦めきれなくて。傷だらけになって、泣きじゃくって、そして、沢山の優しさに支えられて、やっと今、夢の入り口に立てている。
 中学・高校時代の思春期。私を支えてくれたのは、音楽とテレビだった。外で作り笑いをしてボロボロになって、夜中ふと聞いた歌やテレビの中の映像に、いつも励まされてきた。支えられた分、いつか自分も人を支える側になりたいそう思ったのが、マスコミを目指し始めた原点だった。

 インターンはES落ち 焦りを覚えてOB訪問

 最初に書いたESは、博報堂とテレビ東京インターンのES。学生団体での経験など、マスコミ受けしそうなネタを持っていた私は、書類なんて通るだろうそんな気持ちでいた。しかし、両方不合格。焦りを覚えた私は、テレビ局の方々にOB訪問を開始した。
 OB訪問をして言われたことは、「君のESからは何も聞く気が起きない」。字が細かすぎてメリハリがないことが指摘された。ESでは、読みやすさや興味を引く話題が重要視されるそんなことを学んだ。
 ESの問題点が見え始めた秋。練習でキー局のアナウンサー試験を受験。そして、課題だったESが全て通過。面接官の気持ちを考えて、読みやすく ?面白い? ES作りを心がけた結果、ESでは絶対に落ちないと自信を持てるようになった。夏に確実に通るESを完成させていたことが就活での勝利の一因になったことは間違いない。
 そして本番が始まったのが11月の日本テレビ。このとき私は、「ドラマ制作」を希望していた。面接官に、やりたいこと・企画内容などを聞かれた。ヒット漫画のドラマ化やトレンディードラマの復活など、今思えばありきたりなことしか述べていなかった。当然、結果は落選。しかしまだ焦りはなかった。
 12月になってから、本格的に就職活動を始めた。といっても、対象は一般企業。この頃になって焦り出した私は、色々な会社を見てみようと決意したのだった。マスコミに憧れはある。でも、自分に何が向いているのかなんて、わからない。12月・1月と幅広いジャンルの企業をまわり、OB訪問も行った。マスコミを受験することは決めていたが、もし持ち駒が減ってきても焦らないだけの準備をしておこうと思った。その選択は間違っていなかったと言い切れる。一般企業も見ることのメリットは、他にもある。受け皿ができること、そして何よりも、視野が広がる。マスコミ以外に目を向けたことで改めてマスコミの魅力に気付けたり、自分の熱い想いに気付いたりする。一見無駄なようだが、他の企業を巡って、社会人の先輩に話を伺うことは、決して遠回りではないと思う。
 マスコミ就活に話を戻す。一番つらかったのは、1月〜2月だった。一般企業に目を向けつつも、マスコミへの憧れを捨てきれなかった私は、11月からマスコミ就職用の塾に通い始めていた。周りは、個性的な人ばかり。スピーチをして笑いをとる、模擬GDでは積極的かつ論理的に発言し、場を盛り上げる。そんな周りに比べて、何もできない自分。スピーチは苦手、GDでも一言も発言できず終了する。模擬面接では、一切話が盛り上がらない。やっぱりマスコミは向いていないのかな、でも、悔しい。自分に何のとりえもない気がして、一生1次面接の厚い壁を突破することなんかできない気がして、模擬面接中に涙がこぼれた。もう、一般企業に行こう。そう思い、さらに一般企業を熱心に見始めた。今振り返ればそれも意味のあったことだが、このときの私にとって、それはやっぱり、逃げだったのかもしれない。

 ありのままの自分で勝負 そう気づいて大きな一歩

 転機が訪れたのは、2月初旬だった。テレビ朝日の1次面接も、あっさり落ち、もうマスコミ就職はやめよう、落ちて当然。そう考えていた頃。塾の最後の授業があった。内定者に模擬面接をしてもらう。しかし、面接に疲れきっていた私は、なんだかもういいやそう思い、その日だけ自分を甘やかすことにした。模擬面接放棄。そして、内定者に自分の悩みをさらけ出した。
「初めて会うおじさんとうまく話せない」「どうやったら盛り上がるかわからない」。弱音をさらけ出した私に、内定者は明るくアドバイスをくれた。いつの間にか、私にも笑顔が戻っていた。就職活動に縛られていて、忘れていた自分のノリが戻ってくる。そして、授業終了と同時に、内定者に言われた一言「まぁ、面接は普通にいけるでしょ!」初めてそんなことを言われた。「え、どうしてですか? 私、面接は苦手です。1次も一生突破できない気がします」。そんな私に彼は、「そのまんまのノリでいったらいいじゃん、イケるよ」そう、背中を押してくれた。そして私は気付いたのだ。今までの面接で、自分がありのままの自分を見せていなかったことに。
 ハキハキ、賢く話そう。自己PRは、わかりやすく。いつの間にか、形に捉われていた。「○○大学の○○××です。私の長所は、粘り強さです。大学では〜」マニュアル通りの自己PR。そんなもので、人の心は動かせない。そんな作られた会話のどこにも、ありのままの私はいない。周りの受験者と比べて、自分が心底嫌いだった。何のとりえもないと思っていた。だから自分をマニュアルにはめこむことで、ありのままの自分を隠そうとしてきた。でも、そんなのは間違っていた。ちょっとバカっぽいし、論理的に話すことは苦手。敬語も苦手だし、御社なんて言葉、自然に使えない。でもいったん心を開けば、明るくノリよく相手と会話ができる。空気を読むのも得意だし、熱い想いだって、胸の中に秘めている。それが、私だ。だから、勇気を出して、ありのままの自分で勝負しよう。そう決めた日、私は大きな一歩を、踏み出した。
 ポニーキャニオンの1次面接。「おはようございます!」大きな声を出すのは、本当は得意ではない。でも、第一印象が肝心。第一印象で明るい子だと思ってもらえれば、その後の会話がスムーズにいく。だから、誰よりも大きな声でしゃべってやろうと決意した。面接官も笑顔で対応してくれる。しかし面接中盤。私が提案したあるPR案に対して、面接官がこう返した。「バラードにはいけると思う。でもアップテンポの曲を売り出すには、どうしたらいいかな」。えー!! 内心、どうしよう困った!と叫んだ。事前にそこまで考えていないし、今考えられる内容でもない。さぁ、どうする。
 そこで私は、心の声を、表に出してみた。「えー!! 難しい、どうしよう!」思いっきり笑顔で、思いっきり元気よく。そんな私の明るい切り返しに面接官も「だよね困っちゃうよね」。場の空気が、一気に変わった。もちろんそれだけで逃げたら負けだ。PR案のかわりに、アップテンポの曲の良さを語って、うまくごまかす。そして、面接の最後。「何か一言あればどうぞ」。熱意を伝える。そして「今日、案を言えなかったんですが……もしももう一度チャンスを下さったら、今度の面接では、すっごい良い案、持ってきます!」。調子の良さを出してみた私に、面接官が、笑った。初めて、面接で手ごたえを感じた。
 そして、この選考をきっかけに、面接に通過し出す。困ったときは、明るく切り返す。場の空気を明るくして、面接官を自分の味方にしてから、答えを練り出す。それはたぶん、仕事にも通じることだ。正しい答えが言えればそれでいい。しかし、もし働いていて先方に困った質問をされたとき。黙って暗くなってしまうより、明るく「わかりません! でも、次までに調べてきます」そう答えた方が、何倍もいいに決まっている。そんな明るさ、切り返しが評価されているのかと思った。

 面接で気をつけていた4つの注意点

 どの面接も、たいてい中年男性と2対1前後で話すことが多かった。そこで注意していたことを書き表してみる。①中年男性の知らないことを話す、②差異化を図る、③やりたいことではなく、出来ることを探す、④仕事は自分の夢を叶える場所ではなく、利益を出す場所、以上4点である。具体的に言うと、次のようなことだ。
①面接官(中年男性)はケータイ世代の私達に何が流行しているか、何を考えているかを知りたいと考えている。例えば、女子大生に流行しているブログ。そんなことを話題にすると、懸命にメモされることが多かった。
②人とは違うことをアピールする。就職活動生の話なんてどれも似通っているはずだ。そこで、人と絶対にかぶらない変わった企画を打ち出すだけで、印象に残る。また、たとえば「趣味:裁判傍聴」など珍しいことを書くとかなり興味を持ってもらえた。
③途中から制作志望ではなく営業や宣伝志望に切り替えた。なぜかというと、今までの経験から、私にはそれが向いていると思ったから。過去を踏まえて、自分の出来ることをみつけ、それが会社ではどう活かせるかを語ったことで、だいぶ説得力が増したように感じる。制作を目指す人は、それは憧れではないのか? 他の人に勝てる企画が思いつくか? もしかしたら、営業に変えてみれば、受かるかもしれない。憧れではなく適性を知ることは、すごく大事だ。
④博報堂で他の人の面接を聞いていたとき、受験者は「僕は自分の生きた証を残したいんです!!」と語っていた。それってどうなの?と思った。会社は私達のためにあるのではない。組織の一員として働き、利益を生み出すことで会社を動かしていく。そして、その活動を通して世の中を良くしていく。働くって、たぶんそういうこと。だから私は、「悩んでいる人を少しでも支えたい。もちろん利益も出してちゃんと会社に貢献する」そんなメッセージをいつも言っていた。面接官の方々が一番深く頷いていたのはそこだったと思う。

 テレ東の局長面接で体調が悪くピンチに

 面接が順調に行き出して、一度だけピンチに陥った。3月17日のテレビ東京の局長面接。体調が悪く、頭がまわらない。局長陣を目の前に、緊張も高まる。「君の案は面白いけど利益は出るの?」そんな質問が飛び出した。利益が出るモデルなのに、頭の中は真っ白。「勉強不足でわかりません。すみません」。そんな言葉しか出てこなかった。その後に必死の挽回。利益に関しては説明できない。でも、なぜそのモデルが今世の中に必要とされているのかを懸命に訴えた。その後の人事面談をなんとか終えたものの、気分は真っ暗。
 翌々日、指定の時間に電話を握りしめる。「やっぱり、だめかな……」鳴らない電話に、「諦めよう」そう思い始めたとき、非通知の着信が、鳴り響いた。「最終面接に来て頂きます」。その言葉が、どれほどうれしかったか。一度逃しかけたチャンス。疲れているなんて、ただの言い訳。体調管理ができずに万全の状態で臨めずに落ちるなんて、悲しすぎる。なんとか首の皮一枚繋がったのだから、最終面接は必死でくらいつこう。そう決心を新たにした。改めて、謙虚になろう。こんな私を残して下さった会社に精一杯の誠意を見せて、頂いたチャンスを活かしきろう。そう、堅く誓った。
 そして、最終面接。その日は、体調も万全。私は私らしく。ありのままでいこう、そう決めて面接を受けた。「本当にこの会社に来たいの?」そんな質問に「本当に本当です!!」と、思いっきり頭を下げた。その日の夜、電話が鳴った。「内定です」。想いが、やっと通じた瞬間だった。局長面接での失敗がなかったら、こんなに真剣に想いを伝えることはできなかったかもしれない。そう考えると、再度謙虚になるきっかけを与えてくれた局長面接にも大きな意味があった。
 就職活動を通して、今の内定先には一番魅力を感じた。面接を通して、言葉足らずな私の話を理解しようとして下さり、あらゆる面から受験者を見ようとしてくれる姿勢を感じた。その上で私を選んで下さったのなら、安心して働けるだろう。そう思い、内定先で働くことを決断した。
 面接が順調にいきだすまでは、本当に苦しかった。自分が嫌いだったし、OB訪問をして人生まで否定されて、胃腸炎になったこともあった。それでも、やっぱりマスコミに行きたくて、もがき続けた結果、今がある。この結果は、自分の力で引き寄せたものではないと思う。OB訪問で厳しい言葉を投げかけてくれた方々、優しく励ましてくれた塾の内定者、友人、家族。沢山の出会いと支えがあったから、ありのままの自分の魅力にも気付けたし、悪いところは直して自分を変えようと思えた。諦めないで進む勇気をもらった。
 マスコミを目指す皆さんにも、とにかく自分の足で動いて、色々な人の声に耳を傾けることをお薦めしたい。それがどんなにきつい言葉でも、そのときは傷つくけれど、きっと、力になるから。壁を乗り越えた分だけ、強くなれるから。「諦めないでよかった」そう心から言える日がくること、あなたの夢が叶うことを、お祈りしています。ありのままの自分をまっすぐぶつけてほしい。きっと、大丈夫です!!


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。