アナウンサー志望から総合職へ転身したが……

E君/ 一般企業内定内定


 何より役に立った対策とは……

 マスコミ受験。親がローカル局に勤めていることもあって、子どものころから「絶対テレビ局で仕事がしたい」という強い気持ちがあった。物心つくにしたがって、段々その気持ちは強固なものになっていき、いつしかそれは夢となった。当然、何故か親が持ち帰ってくる「コンサートチケット」や、いわゆる高給に惹かれたのも事実だが(笑)。
  何はともあれ、テレビ局で仕事がしたいと思ったからには行動しなきゃいけないと思い、大学に入学してから少しずつ動き始めた。
  まず、単位。これ、意外と大事。マスコミ受験は多くは三回生の秋から始まるので、三回生秋の時点で「卒業か就職か」といった世紀の一大決心を迫られることのないよう、多少無理をしてでも1、2回生のうちで単位は取っていなければならない。そこで、自分は3回生までにほとんどの単位をとった。特に語学などの出席しなければならない授業は3回生の春までにすべて取り終えた。
  次に、会社見学。OB訪問というとかっこいいが、実際はテレビ局を見に行っただけだ。事前にアポをとり、在阪各局で訪問可能なところはすべて回った。息を殺して収録現場に入り、現場の雰囲気に息を飲み……。字通り本当に呼吸ができなかった。その時、ニュースアンカーのアンカーマンに言われた言葉が印象的だった。「何千倍?? 超難関??狭き門?? そんなに本気で目指してるやつなんかごく少数しかいないんやから、全然狭いもんじゃないで」。その言葉を聞いて、門を閉じてるのは自分だと感じた。
  さらに、テレビ。テレビ局を受けるのにテレビ番組を見なければ全く意味がない。というか失礼に値する、と思ったので一応観た。ただ、全ての番組をみるのは絶対無理なので有名どころだけ、某動画サイトで目を通した。何より昼ドラが一番好きだったので、昼ドラだけは欠かさず見た。昼ドラのドロドロ具合や、超無理矢理のストーリー展開に毎日ハラハラしながら、就職活動に挑んだ。こういう自分を支える番組は、テレビ局を受けるからといった悲しい理由ではなく、辛い就職活動時代のために、持っておいた方がいいと思う。
  最後は、最高に遊ぶこと。正直マスコミ受験のために、これをしておいたら得といったことは全くない。アナウンサー受験でさえ、アナウンサー学校に行っているかどうかは、ほとんど関係ない。だから、面接で楽しいことを語れるように最高に遊ぶしかないと思った。入学当初からやっていたヨットクラブ活動を一生懸命行ない、スペイン語で劇をやり、農業やり、頑張って彼女をつくり、バイトで日本全国を駆け巡った。マスコミ受験を終えたいま、振り返って、何より役に立った対策はこれだと思う。 

 フジのアナウンサー試験から就活スタート

 僕の就職活動始めはフジテレビのアナウンサーのES記入からだった。初めて見るエントリーシートにわくわくしながら、書き込んでいった。自分を歴史上の人物にたとえると誰か、気になるニュースは何か等々だった。あんまり飾らずただ思った通り、「ライト兄弟」などと書いた。また、全身写真1枚と、自分のベストショット4枚が指定だった。スタジオで全身写真を撮ってもらい、ヨットを頑張っている写真2枚と、受けネライで僕とデートしているような感じに見えるショットを2枚貼り付けて挑んだ。結果は合格。周りにアナウンサーを受験している人がいなかったため、10月に入っても就職活動している意識があまりなかったが、これをみてやっと戦争が始まったと思った。
  この合格通知をみて調子に乗り、これなら他局もいけるかと思ったが時すでにおそし……。もう申し込みはほとんど終わっていた。とりあえず、テレビ朝日のアナはESそのまま持ち込みだったので、そこだけ申し込んだ。面接を待っている間に内定者の方が無理にでも緊張をほぐしてくれ、いい会社だなと思った。30秒のスピーチを考えて来いと言われていたので、「ドラえもん」から「スネ夫」に似ているというスピーチを作っていったら「似てない」とあっさり切り捨てられ、撃沈した。面接で自分を飾らないことが重要だとは聞いていたけど、自分を悪く見せるのもダメなんだと痛感した。

 いざ挑戦!フジのアナ試験

 翌日に、フジテレビのアナの面接があった。ブースが6つほどに区切られており、前の部屋で面接に対する説明がなされたあと、それぞれのブースの列で名前が呼ばれるまで待たされた。人にもよるが10分ほどで、簡単な質疑応答のあとに原稿読みが行なわれていた。まず驚いたのは周りのESのレベルの高さだった。写真には、びっしり白文字でコメントを記入してあり、4枚のプライベート写真にはテーマを持たせてびっくりするぐらい見やすかった。有名人の欄には「小林一茶の詠んだ歌に登場する女」みたいなことまで書いてあった。さらに、面接官と話をするためにわざと大きいキャリーバッグをもちこんだりしている人までいた。その光景を見て「ごく通な自分は絶対受からないな」と思った。そう思うと前の6つのブースから聞こえてくる学生たちの美しい声はプレッシャーにならなかった。
  自分の名前が呼ばれ、元気良く返事をした後、ブースに案内された。ブースではフジのアナウンサーに加え二人の社員が座っていた。見たことあるKアナだったので驚いたが、所詮受からないだろうと思って落ち着いていられた。
「そこに座ってみて今の気持ちどう?」
  いきなりそう聞かれ、「安心してます!」そう答えた。「なんで? 緊張するところでしょ?」。すかさず「みなさん優しそうな顔をしてるからです!」と僕。険しい顔した試験官が「オレ優しそうか?」「あなたは(顔が)黒いんで……。僕、ヨットやってるんで焼けた人は好きなんですよ」と言ったら爆笑された。そこから本題に入り、「モテルでしょ?」と言われ、正直に答えたら面白くないと思い「はい! むちゃくちゃモテます」と答え、また爆笑。最後に「自分の判断と会社の判断が違っていたらどうしますか?」というまじめな質問に対して、「正直……出世したいんで会社の判断に従います」と答えて終了した。Kアナが「これから先、大変だと思うけど頑張ってね」と言ってくれ、嬉しくて泣きそうになった。明日から絶対『めざましテレビ』を観ようと思った。
  その面接当日の夜、いきなり電話がかかってき「この電話がきたということは? 合格です」とテンション高く言われ、明日も面接に参加することになった。「筆記テストがあるのでペンを忘れずに」と付け加えられ、どうしようと思いながらも嬉しかった。筆記テスト対策などほとんどしておらず、それに付け加えカメラテストの勉強も全くしていなかったので、本当にヤバイと思ってフジテレビに関する知識
しぼられていた。この前の面接の様子と比べると、ピリピリした感じは全くなく、みんなハイテンションだった。実際、カメラテストや筆記試験の対策、またエンタメ筆記試験の対策をしているという人はほとんどいなかった。うわべだけかもしれないが(笑)。

血液を提供しただけで泣く泣く敗退

 午前中、男子のみ全員、集められ今日一日の説明を受けた。まず自己紹介シートの記入。自分の出身高校や、親の職業、学生時代頑張ったことなど、硬いことに加えて、志望動機やフジテレビのイメージなど、やわらかいことも訊かれた。大きな紙一枚への記入であり、すべてをしっかりと埋めていては間に合わず、得意なところをピンポイントで書いたほうがよかった。
  次に、筆記試験。英語・数学・国語だった。噂に聞いていた通り、某予備校の試験と似たテスト用紙が配られ、全マークシートでの回答だった。レベルはセンター試験程度だが、時間があまりなく、一般教養に至ってはみんなほとんどできていない様子だった。
  人事も、「ちょっと難しかったでしょう」と笑いながら言っていたのが悔しかった。次に、論作文。『将来のあなたの夢』というタイトル。「ここにいる奴、全員同じだろう」と内心、突っ込みを入れながら、400字詰め原稿用紙一枚を埋めた。比較的まじめに書いたが、中には「できることならこの論作文を書きたくない」ということを書いている強い輩もいた。その後、各自面接。午前中に記入した自己紹介シートを見ながら、一人の人と部屋の外で会談。その後、部屋に入り、2対1での面談だった。人によって違ったみたいだが、面談というよりも面接といった雰囲気だった。カメラテストでの簡単な原稿読みも実施された。面接では、「好きなアナウンサーは?」と訊かれ、また「フジテレビのイメージ」も訊かれた。ただここで、好きな番組を答え、胸を張って「報道ステーション」と言ったのが、人事の顔を明らかに曇らせてしまった。
  その後、血液検査とアナウンサーに必要な眼の検査をされた。「またお願いします!」とみんなで言っておいた。
  結果その日に、合格通知はなく、泣く泣く関西に帰った。
  これはあくまで噂だが、次の段階でだいぶ人数が絞られたようだ。
  フジに血液を提供できて誇りに思う。

「とりあえず叫べ」と言われ「アナウンサーになりてえー」

 関東でのアナウンサー試験に比べて、関西のアナウンサー試験は、なかなか苦しいものだった。まず募集企業。準キー局のアナウンサー試験は、二社しかない。そのうち一社は男性アナウンサーの採用に消極的だった。つまり、朝日放送しかなかった。朝日放送のエントリーシートは非常に単純で、好きなもの・好きな番組・アナウンサーとタレントの違い等の質問に答えるだけだった。書く欄もほとんどなく、あとは裏面一面に自己PRを記入だった。その自己PRに関しても、絵や写真は一切禁止で、文章能力をみるといった注意書きがなされていた。他のESと差をつけるには、ここをひとひねりするしかないと思い、もともと無いクリエイティブ性をふりしぼって、「拝啓 朝日放送様〜」から始まる手紙の長文を完成させた。あまりおもしろくなかったが、なぜか通してくれた。人事に感謝。
  次の面接では、2対1の面接だった。先方は、アナウンサー一人と社員一人だった。これは後日談だが、アナウンサー試験に社員を同席させるのはアナウンサー能力だけで評価しないためにとのことだ。面接方法もいたってシンプルで、そのまま会話の流れに沿ってこたえていいものだった。僕はヨットをしている写真を張っていたので、「この写真何?」と突っ込まれ、楽しく会話しているうちに、本題に入った。志望日放送なのか」を少しだけ聞かれた。そこでいきなり、「あなたを一言で表すと?」と聞かれて、とっさに「ジェット風船」と答えた。「なんで?」と、当然聞かれ、「最初の勢いはいいんですが、あとで思いっきり落ちます。ピューといってポンみたいな感じです」とこれまたとっさに思いついたことを答えて爆笑され、そのままの勢いで、「これ読んで」と言われて原稿読みをした。あまりに話に夢中になったせいで、のどカラカラでしんどかったが、なんとか読み終え、「お疲れ様」と言われて終わった。
  周りには、ダンスやら逆立ちやらボイスパーカッションやらをさせられている人もいたので、比較的ラッキーだったと思う。結果合格だった。
  翌週の面接では、時間を選んで好きな時間にカメラテストだった。僕は午前中だったので、最初のほうだった。一グループあたり8人ずつぐらいに分かれ、一人一人カメラテストだった。まず30秒で2枚の原稿を読み、その後、実際のスタジオのカメラの前で原稿読みをした。カメラの周りには20名ほどの社員がおり、またカメラの向こう側でもそれ相応の人数がいると聞いた。原稿は経済の話と川端康成の詩の朗読だった。それが終わった後、一枚の原稿を渡され、その後その原稿にあった映像が流され、現場中継をさせられた。特報が入ってきたという設定で、何の情報もないまま爆発物処理の現場を中継した。楽しかったので、緊張はしなかったが40名の威圧感はなかなかのものだった。すべてが終わった後、質問タイム。とりあえず叫べと言われ、「アナウンサーになりてぇーー!!!!」と叫んだら「は?」と返され、そのまま終了。そのあと漢字の読みなど簡単な筆記試験を受け、絶対落ちたと思いながら家に帰ったが、入浴中に電話が来て無事合格を伝えられた。

 東海テレビを最後に総合職にシフト

 次の日、朝日放送本社に呼び出された。男性6名、女性何名かが残っていた。人事の人に、今日は本当にハードになると聞かされ、多少ビビりながらも、一日の説明を受けた。スタジオでのグループディスカッション(GD)と朝日放送独自の適性試験。それから、論作文の3つを午前中に行なった。GDは、スタジオの中で今年を表す漢字をパネルとともにカメラの前で討論した。注意事項は、視聴者が見ていておもしろいディスカッションということだった。そんな無茶なと思いながらも、学生達は楽しんでいた。(面接官は笑っていなかったが)論作文は、「10年後のあなたへの手紙」だった。また手紙かと思った(笑)。
  午後は、スタンプラリーだった。一人一人カードを持って、5つのブースに行き、シールを押してもらう。……というと非常にラフで面白そうだが、実際はそうではなく、ブースごとにしっかり面接させられた。1ブースに社員がアナウンサーを含め2名おり、ESに書いた内容や、「お昼ごはんおいしかった?」などの質問をされ、さまざまな角度から自分自身を見られた。終わった後、全員にタオルが配られ、また社内見学もさせてくれた。スタジオ内でカメラの前に座らせていただき、楽しく原稿読みをさせてもらったは選考に含まれてない……と思う)。
  結果は惨敗だったが、お昼ごはんを社員さんと食べさせてくれたり、いろんな方に会わせてくれたり、緊張をほぐすために面接前にM-1を見せてくれたり……。選考を通じて学生を大切にしようという気持ちがヒシヒシ伝わってきた。本当に素晴らしいテレビ局だと感じた。絶対総合職でも受けようと思った。
  風の噂で、次の最終面接に進んだのは女性2名と聞いた。
  残された準キー局である東海地方もアナウンサー募集は少なく、また、ほかのテレビ局に比べてアナウンサー能力を重視して採用しているように思った。不況の中、即戦力を求める放送局が多いという話も聞き、アナウンサー採用を実施している局も少ないので、東海テレビを最後に、アナウンサー試験は辞め、一般総合職にシフトした。 

 最終的に全滅で本当にへこんだ

 一般総合職はキー局・準キー局合わせて、15社ほど受験した。アナウンサーの面接で打たれ慣れたためか、一般総合職はかなり良く進んだ。複数のテレビ局で面接が進んでくれたため、試験日程がかぶり泣く泣く選考を辞退するなどしながら進めていった。結果的に毎日放送や朝日放送などが最終面接手前の6次面接、中京テレビで最終面接までいったものの、長い長い戦闘も虚しく、最終的に全て落ちた。さすがにどこかに入れるかなと期待してしまっていたので、全滅したときには本当にへこんだ。ビデオに撮った昼ドラを一日中観て、また、片っぱしから映画を観た。それを4日間続けた。5日目にはさすがに凹むのも嫌になった。
  そんなこんなで、落ち込んでいる暇もなく、4月に入ってすぐ一般企業に頭をシフトせざるを得なかった。しかし、ここで僕もやっと日の目をみる時期が来た。並はずれた面接経験回数のおかげで、4月以降の面接は驚くほどうまくいった。ほとんどの企業で落ちることはなくなく日々が続いた。一番初めにメガバンクから内定がもらえ、そこからは面白いほど内定が出た。いろいろ考えた結果、アナウンサー職でNHKは進んでいたものの、選考辞退し、一般企業に就職することにした。
  マスコミ受験は、試験回数が多く、また運の要素も強いため、心がズタズタになるが、決して無駄にはならないと思う。マスコミ業界に進まない僕が言うのも妙だが、マスコミ受験をすることで、自ずと自分の選択肢は広がる。マスコミへ進む道ももちろんだが、選考に慣れることや事前対策をすることで、マスコミ以外の、思わぬところに内定をもらえることも少なくない。
  また、面接で出会った仲間は一生ものの宝となる。しっかりと事前に対策を立てて、「自分はこれだけやったんだ」と思うことができれば、何があっても後悔しない。面接での自分の姿に自信も持てる。そんな気持ちになれば、あとの運は天にまかせ、結果は神のみぞ知るだけだ。それでも、きっと女神が微笑んでくれると思う。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。