子ども番組をつくる人になりたかった。

Dさん/ 読売新聞社・NHK内定

 ラジオ番組という形で、自分の声で、文章で………たくさんの形で「伝える」ことにチャレンジして、その面白さも恐さも実感した高校時代が私の原点。大学のAO入試を受験した際に書いた志望理由書にも既にこう書いてある。「子ども番組をつくる人になりたい」次世代の社会を担っていく子ども達に伝えたいことが、たくさんあった。世の中に対する問題意識や、生きていくのに大切なこと。これらは大学生になって、開発教育や平和学を学ぶ中で、また地域に、学校に、養護施設に塾に官庁にと様々な現場に入っていき活動する中で、ますます増え、具体化していった。

就活の皮切りはインターンシップから

 3年生の6月、テレビ東京・テレビ朝日のインターンのESを書き始めたのが私の就職活動の始まりだった。キー局内定のアルバイト先の先輩に、見てもらっては書き直して……を繰り返した甲斐もあってか、文章のみのESのテレビ朝日は通過。しかし、4コマで学生時代を表現せよというビジュアル課題だったテレビ東京は落ちた。かなり時間をかけて作ったものだったので、通知画面を見て呆然。私がもっていた根拠のない自信は、早々に崩れ去った。
  通った子のものと比べて分析し、学んだのは「印象に残るか」「面白い奴だと思わせられるか」が勝負の分かれ目だということ。「いろいろなことを頑張った」子よりも、他の子にないオリジナルな一つを頑張った子は「○○の子」として印象に残るし、面接に呼んでその話を聞いてみたくなる。もしくは、比較的一般的な経験を題材にしていても、「見せ方」が上手な子は通る。面白い題材、面白い切り口、面白い見せ方。考えてみれば、これらはそのまんま番組制作で求められる力なのだった。さして特徴的でもない題材を羅列するような人材をとるわけないよなー と納得した。
  テレ朝インターンの一次面接が私の初面接になった。「一分間くらいで自己PRをしてください」と言われ、どの経験から何を言っていいか分からない自分に気づき絶望した。そして何より、がちがちに緊張した。予備校で毎週高校生20人を前に講義をしていたので、ちょっとやそっとでは緊張しないと思っていただけにショックだった。一緒に面接を受けた女の子はペラペラと自己PRをしていて、全然緊張していないように見えた。2日後に不合格通知があった。「私、就職できるのかな…」という不安を抱えたまま、夏もヨーロッパに行ったり、ボランティアをし 秋から冬にかけて、厳しいと評判の所属ゼミの活動の合間をぬって、本格的に就活に備えて準備を始めた。やったことは、大きく分けて3つ。
「自分のやってきた経験を掘り下げること(なぜやったのか分析したり、エピソードを詳細に思い出しまとめたり)」「作りたい番組案(出版社用に本の案も)をいくつか詳細にたてること」「根本にある自分のテーマを追求し、マスコミ業界を志望するブレない軸となる理由を明らかにすること」。
  これらはみんな、先輩や友人、両親との対話の中で行なっていった。自分が忘れていたことを思い出したり、私になかった視点をもらうことで、内容をブラッシュアップさせることができたり、1人だとループしてしまう悶々とした考えが、人に話すことでクリアになっていったり……。1人で閉じこもってやるとろくなことにならないことを、この時期に学んだ。番組案も自己PRも、全員に同じではなく切り口や説明の仕方を変えてみることで、反応のいいやり方を探っていった。
  3つを形にしていく際に最も響いたのは「理由は100個くらいある。その中で独自の理由を選んで言う(書く)ことが大事」という大先輩の言葉。第一志望だった子ども番組を専門に作るNHKエデュケーショナルを除いてOB訪問はほとんどしなかったが、その数少ない訪問時に言われた「例えばテリー伊藤さんを前に自分のことを話すとしたら、相手の知らなさそうなことを話すでしょ」という言葉にも納得させられた。迷わないように、「奇抜な嘘を書くわけではなくて、たくさんの本音の中で私独自のものを、なるべく面白いものを書くのだ」と何度も自分に言い聞かせた。
「エピソードたくさんありすぎて選べず、1つに絞るとずっとそれだけやってきた人に負ける」という問題はやはりずっとつきまとい、「ひとつを深く、がベストなのか?」と、たくさんのことにチャレンジしてきた自分を否定された気分になったりもした。そこで私は、無理に絞るのをやめ、時間はかかるが全経験を詳細に掘り下げて、いくつもの「エピソード→アピールポイント」のパターンを考え、受ける会社によって使い分けられるようにしようと考えた。
「私はこれ!」というものがあるとやりやすいのは確かだが、やはり私の魅力はそこではないと考えたし、全部詳細に掘り下げておけば、ESに書いて面接で話題に上がったときも、テンパらずに面白く話すことができると考えたからだ。
「私の中にはいろんな私がいる。その中から、その会社やその仕事に一番適した部分をアピール。多様性が自分の強みだから、1次面接、2次面接と進んでいく中でなるべく全てを見せられるように」という戦略。ネタは豊富だったから、面接は緊張せず「会話する」ことに慣れてしまえばこちらのものだった。
  とは言え、そうなるにはかなり時間がかかった。

好感触に期待持つも撃沈した日テレ

 本選考一発目の日本テレビでは、夏以来の面接にやはりがちがちになった。なぜか一次は通過。二次では緊張に震えながらも一生懸命に好きな番組や、作りたい番組について話した。面接官だったおじさま2人は非常に人が良さそうで、私の話に何度も笑ってくれた。「この調子で頑張ってくれればOKだよ、次も頑張って」と言われ面接が終了。あまりの好感触にテンションは最高潮、頬が紅潮したまま帰った。三次試験は筆記と聞いていたので、数学が苦手だった私は慌てて参考書を買ってきて、必死に勉強した。その最中に発表時間が来て、「一応確認」くらいの気分でページを開いて、目を疑った。落ちていた。
「慣れる」「緊張しなくなる」と先輩方は皆、口を揃えて言うが、そんなの嘘だと思っていた。最初のうちは、何度面接をしても毎回ガチガチに緊張して、「自分に緊張せず会話を楽しめる」日が来るとは思えなかったのだ。
  実際、私は恥ずかしいくらい一次面接でとにかく落ちまくった。でも、本当だった。いつからだとは、はっきり線は引けないが、落ちまくっていた間に面接に慣れてきて、2月下旬頃には全く緊張しなくなっていた。そうして段々一次が通るようになってきた。
  すると次は集団面接という壁が現れた。1対1の面接で「会話」するコツは、分かりやすく短く答え、質問してもらうことだったのだが、集団面接では同じ質問を機械的に順番にふられるので、短く答えると「それだけ?」という反応をされるだけで隣の人の番になってしまうのだ。
  またもう一点、集団面接の厄介な点として、「他の受験生のとばっちりを食う」ということも挙げられた。誰かの話したオリジナルな活動の話などから派生して、全然考えたこともないような話題が突如振られたりするのだ。「長くてだるい」にもならず「それだけ?」にもならない話の量をマスターするのには、やはり何度かの集団面接を必要とした。
  秋に受けた最初のWebテストで落ちて以来、筆記試験では落ちなかった。私は高校時代から数学が大の苦手で、高2までで授業をとることも止めた。入試でも使わないし、これでおさらば! と思っていたので「ここにきて必須になるなんて聞いてないよ」と裏切られた気分になった。悔しくて、年末年始の面接のない時期に缶詰でやった。SPIは初めて解いたとき5点だった非言語が、問題集を2冊往復したところで、六割超はとれるようになってきた。言語の分野を詰め込み、SPIはなんとか通過できるレベルに。
  それが終わると『新聞ダイジェスト』に取りかかった。知らないことだらけで青ざめて、日頃、全然新聞を読んでこなかった自分を恨めしく思った。書いてある数字も用語も丸暗記する勢いで詰め込み、ES締め切り前でもニュース番組にはかじりついた。「なんとなく」知っていても点はとれないので、漢字がきちんと書けるように、正式名で答えられるようにという気持ちで観た。一般教養では、身の回りのすべてが試験に出る可能性がある。まさに教養を、今までの生き方を見られているのだと思った。

1〜3月はESラッシュ

 就活全体を通して私が一番辛かったのは1〜3月のESラッシュだった。マスコミのESは、とにかく分量も多く、質問内容も変わったものが多く、みな手書き指定で自由スペースも多い。しかも、それが1日に2〜3社締め切りが重なったりする。提出の締切前には徹夜は当たり前で、夕方5時に閉まってしまう地元郵便局を諦め、都内の24時間営業のゆうゆう窓口まで深夜に駆け付けることも何度となくあった。3月半ばからの面接ラッシュに入ってからの方がよっぽど楽だった。
最終前までいったテレビ静岡、マガジンハウスで「会話を楽しむ」とはどういうことか分かった気がした。取り繕って自分を偽るのでなく、素直に自分を出していくことや、相手の反応を見ながら、もっと面白がらせたいと思って次の発言を考えること。これはテクニックでも何でもなくて、普段友人と話すときなども自然に大切にしていることだった。落とされたときも、不思議と爽やかな気持ちで「ここまで残してくれてありがとう」と思えたのは、やはり面接が楽しかったからだと思う。
  しかし、やはり最終前や最終で落ちる中、「誰にも必要とされない」と思い、「なぜこんなところを目指しちゃったんだろう。いけるとでも思ったのか、馬鹿な自分」と自分を罵る辛い日々も経験した。
  我が家には院に進学したり留学や留年するような経済的なゆとりはないため、とにかくどこかには就職しなければと思い、「全然、知らない業界・会社も今からでもエントリーしなきゃ」とリクナビで必死に検索しては、やみくもにエントリーをした。
  4月の半ばに、マスコミじゃなかったらここに行きたいと思っていた他業界の企業から内定をいただけて、先のまったく見えない闇が晴れて空が見えた。
  就職はできる。となれば、すべきことはまっすぐに、ずっと目指してきた場所に挑むのみだった。子ども番組の会社、私が絵本編集者になれるかもしれない最後の砦である学研、アニメ映画に強い角川映画以外の残っている企業は全て選考辞退した。
  学研は例年10人前後採用している。三次選考に向かったら、控え室には私を含め9人しかいなかった。「この9人でいいじゃん、今日選考しなくていいじゃん」と思った。15分程の面接では、いつものように素直に真剣に答えていくことができたと思ったのに、帰り道、なぜかひどく胸騒ぎがしたのを覚えている。翌日、合格者のみ来るはずのメールは来なかった。諦めがつかず、日付けの変わる直前までメールチェックをした。「絵本編集者になれるかもしれない」、その最後の路が消えた。

 第一志望である子ども番組を専門につくるNHKエデュケーショナルが残っていた。それがまた私の心を奮い立たせた。ここの面接で初めて、学生時代一番頑張ってきたけれど説明がしづらくアピールしづらかったアルバイトの予備校講師の話をした。三人の面接官のうち一番右の男の方がすごく厳しそうな方で一瞬萎縮したが、じっと目を見て話したら、なぜだか「あ、伝わってる」と感じられた。
  しかし、帰り道、日テレの記憶が蘇ってきて一気に不安になった。合格者のみ電話連絡があるとのことで、時間帯はちょうど私のアルバイト先の予備校での授業と重なっていた。アルバイト中で電話に出られないかもしれない旨は先方に伝えていたものの、授業が長引いてしまったこともあり、合格していたら着信が残っているはずだと思い、心臓のはちきれるような思いで携帯を見た。着信はなかった。資料の後片付けをし終えて入ったトイレで電話が鳴った。電話口の男の方が「合格」を告げ、「アルバイトの終わる時間が分からなかったもので…」と付けたした。運命だと思った。
  役員面接までの日々は、大学も休んで一日中テレビにかじりついて3チャンネルを見まくった。高校生の頃に書いた拙い志望理由書も、大切に読み返した。いままで私が何に問題意識をもって、そのきっかけは何で、そのことをどう考えてきたのか、そのうえで何をしてきたのか、この先何がしたいのか、改めて考えた。
  そして当日。扉を開けたらそこにはざっと15名くらいのおじさま、おばさま方が並んでいた。皆、堅そうな、いかめしい表情をしていて、またその人数の多さに、一瞬面食らった。質問は「考えてきたことは言わせないぞ」というものばかりだった。
  ひるまず、明るく、真摯に考えて答えていくと、一番真ん中の方が「君のESは全く読む気がしなかったよ。読み手の気持ちに全く立てていない」とおっしゃった。ショックだった。確かに、何年間も目指してきた思いを、成し遂げたい仕事内容を、少しでも詳細に伝えたい気持ちが勝って字が詰まってしまっていたのは反省点としてある。初期面接では問題なくても、最終に進むと老眼の進まれた役員の方々には大問題になることも盲点だった。しかし、そんな意地悪な言い方しなくても……。圧迫面接で、私の反応を見ているという面もあるだろうことは分かっていたので、うろたえるもんか、負けるもんか! と気持ちを強く持ち直して、あくまで明るく反省と今後、学んでいくべき点を伝えた。ここは、ずっと目指していたところで、その最終なのだ。
  結果連絡は1週間後で、やはり胸騒ぎがひどくて、その間に3キロ痩せた。一分一秒いてもたってもいられず、胃が痛んで野菜ジュースしか飲めない日々が続いた。(電話が)来ないんじゃないかと何度も頭をかすめたが、本当に来なかった。採用は一人である年が多いことは知っていた。むしろ採用のない年もあるので、受けられただけラッキーだったとは思う。しかし、私が気が気じゃないまま携帯を握りしめていたこの1週間の間に、誰かの携帯は鳴ったんだ。誰かは4月からあそこで働くのだ、と考えると胸が痛んだ。
  「選考を通して惚れた」
角川映画に内定

 傷心の中、受けた、残る最後の企業、角川映画の三次選考。よく「選考を通して惚れました」というような話を聞いたことがあったが、そういう人のことを私は「本当にそんなことあるのかな?」と疑いの眼差しで見てきた。しかし、私は確実に、この選考を通してこの会社が好きになってしまった。
  経験を盛って話すこともせず、自分を実際以上によく見せようともせず、素直にありのままに答えて、やってみたいことを素直に話し、なぜ映画業界に惹かれるのかを素直に話したら、そのいちいちを面白がり、興味をもってくれて、もっと深く知りたがってもらえているのが伝わってくる。私はありのままの自分を認めてくれる場所に出会えた気がした。そして面接官は、私の言ったことに対して自分はどう考えているのかや、実際に同僚の成した仕事について嬉しそうに話してくれたのだ。「会話」と言っても、面接はやはり面接官は質問するだけで、学生は答えた内容で審査されるものだった。が、この面接は本当に「会話」だった。「うちは君のような人が欲しいんだ」「向いていると思う」という言葉を頂いて、幸せな気持ちで帰った。
  この会社は、結果連絡に時間がかかるのが特徴的だったが、もう待つのはそう苦ではなかった。角川制作の映画をレンタルビデオで借りてきて観たりしながら待った。通過していた。最終までもかなり期間があり、ゆったりした気持ちで、やはり映画を観たり、会社について改めて調べたり、経営している映画館に行ったりして過ごした。就活中なるべく封印していた、大好きなマンガも読んだ。
  何がよくて何が悪かったのかはわからない。最終面接も15分と短く、考えていたことの半分も言えないまま終了し、決してうまくいったとは思わなかった(マンガの話題が上がったので、封印を解いたのは正解だったと思うけれど)。映画会社は角川以外みんな1次面接落ちだったか、映画は向いていないのかなと思っていた。でも不思議なくらい、角川ではスルスルいった。手応えも何もなかったが、予定より何日も早く、地元の駅ビルで買い物をしていたときに電話が鳴った。
  選考を通して惚れるなんて、嘘だと思っていたけど、あった。ここだけだった。就活生はこれだけ苦しい思いをしているんだから、「相性」なんて努力で届かない言葉で済まされたくないとずっと思ってきたけど、やっぱりそういうものはあるみたいだ。
  一桁しか受けなかったという人もいる。でも私は最初から角川映画にいくとは思っていなかった。でも、いま思うとすごく自分に合っている気がするし、周りにもそう言われる。こっちが思うことと相手が思うことが、違う可能性は大いにある。少なくとも「内定」を出すその時までは、「相性」を判断するのは企業側の方だから、体力・精神力・時間のある限りたくさん受けてみるのも悪くない。私がいま後輩に一番伝えられるのは、伝えたいと思うのは、このことかもしれない。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。