就職留年の末、
希望していた出版社へ

G君/早大 出版社内定

 太宰治の小説『正義と微笑』のなかに、こんなくだりがあった。「苦しい、また一面みじめな職業だとさえ考えている。けれども、この職業以外に、僕の出来そうなものはちょっと考えつかないのである。牛乳配達には、自信がないのだ。」牛乳配達に自信があるかどうかは別として、実は僕もこれに近い考えを持っていた。自分の将来について、就職留年も含めた2年の間にいろいろと考えた。酒が好きだからビール会社に就職しよう、いや、菓子が好きだからお菓子メーカー……、それともデザート……(食べものばかりだ)。しかし、結局、最後に行き着くのは、なぜか編集者だった。数年後の自分について考えると、編集者以外、自分の働いている姿が想像できなかった。だから出版を選んだというのが本当なのだ。
 今でも、「どうして出版なの?」とい立質間には返答に困ることが多い。働いていくなかでそれを見つけられたらと思うのだけど……。


2年めで、もうあとがない

 就職活動1年目を0勝3敗(うち2敗は不戦敗)というやる気のさっぱり感じられない結果で終え、猛反省。帰郷して「もう1年やらせてください」と一言う僕に「来年はないぞ……」と温かく答えてくれた両親に報いようと精一杯の努力を誓う。雑誌研究会に参加、マスコミ予備校に通い、出版社でアルバイトを始めた。さらに出版業に関わる人だけでなく、いろいろな人(ホームレスから警察官まで)の話を聞く機会を持った。「もうあとがない」という思いがあったため、毎日何かに追われるように動いていた気がする。でも、こうして動いていくなかで、ともに活動していく大切な友人(ほんとに助けてもらいました。ありがとう)や貴重な話、体験(時に面接で話すネタとなった)を得ていった。
 2月12日。目経BP社セミナー。いよいよ活動開始。日経BP社はスタッフライター制など、編集者というよりは記者的な仕事が出来るので興味津々。会場のホテルニューオータニ鶴の間には溢れんばかりの人がいた。あらためてマスコミの倍率の高さを感じる。
 2月15日。フジテレビ1次面接。練習のつもりで受験。「うちでどんなことがやりたいの?」と訊かれ「『ハウス世界名作劇場』を復活させたいです!」と即答。さすが練習。さらにインターネットで復活署名が行なわれていることも交えてキャラクター戦賂の話まで一気にまくしたてる。思い切りのよさでも買われたのか、通過。
 2月22日。目経BP社筆記試験。午前にSPI、午後に一般教養、作文、英文要約、志望書記入。苦手の英語は半分しか出来なかったが、それ以外はなんとかこなす。午後の試験は志望する分野によって問題が違うのだが、僕はパソコン分野かエンタテインメント分野かでさんざん迷って時間を浪費。さらに試験時間が長すぎるためお腹が空き、イライラしながら問題を解いていた。どうにか通過。
 2月25日。フジテレピ2次面接。1次面接の時とは違い、妙に重い空気。時間が過ぎるのが早かった。もちろん敗退。
 3月10日。日経BP社1次面接。前々日に本社まで行って『日経デザイン』と『日経レストラン』のバックナンバーを購入(エンタテインメントとデザイン、レストランは同分野になっていたため)。直販のため書店で買えないところがつらい。一日で4冊を読破し、1次面接に臨む。が、集団討論では自己PR、志望動機を言ったあと、面接官から軽い質間をされただけだった。ちょっと損をした気もしたが、読んでいて楽しかったのでよしとする。無事通過。
 3月16日。日経BP社最終面接。役員十数名がずらっと並ぶ姿に緊張。さらに社長からの距離が2メートルぐらいしかなくてさらに緊張。そのためか「うちでどんなことをやりたい?」と訊かれて、いきなり新雑誌の企画をぶちあげる。なってない。ニコニコと聞いてもらえたのだが、不通過。


講談社か小学館かで悩む

 さすがに最終面接まで進んでの敗退はショックで、このあとーカ月ほど何もできなかった。そんな時、某出版社の雑誌編集長と会って話をする機会を得た。志望書や、自作の雑誌比較表を持参して見てもらう。さらに、雑誌の広告についての裏話を同席したアパレル会杜の社員の方から教えてもらい、やる気が復活。やはり動いてみるものだと実感。その節はどうもお世話になりました。
 4月下旬。小学館、講談社と相次いで書類通過の知らせが届く。「やった!」と喜んだのもつかの間、試験の時間が重なっているのに気づく。そこですぐに電話で時間変更をお願いしなかったのが、あとあととんでもないことになるのだが……。
 5月6日。講談社に時間変更を電話でお願いする。しかし「ゴールデンウィーク前だったら何とかできたんだけど……」とのお答え。ほったらかしておいた自分が悪い。小学館と講談社どちらをとるか……。
 5月7日。文藝春秋書類提出。時間ギリギリ(実はちょっとオーバー)で提出。受付のお姉さんは寛大です。ごめんなさい。もうしません。お姉さんのおかげで通過。
 5月9日。講談社筆記試験。小学館とどちらを取るか、朝まで考える。週刊誌志望の僕にとってはかなりの大間題。家を出る時には得意の三題噺がある小学館にしようと決めていた。しかし、たどり着いたのは講談社の会場……。SPI、漢字はそつなくこなす。難問奇問の一般教養もヤマが当たり(?)納得のいく出来だった。講談社にしてよかった!と思った。帰宅後、小学館を受けた友人に「三題噺でなかったよ」(注:このあとの2次筆記で無事出題された)と教えられて「これはついてる!」と講談社に縁まで感じてしまった。それもつかの間のことだったが……。
 5月12日。ぴあ1次面接。『CanDo!ぴあ』について熱く語るも、不通過。相性ってあるものなんだなあと痛感。
 5月9日。講談社1次面接。今年出来たての新社屋が会場。エレベータで最上階へ。うれしさで文字通り天にも登る気持ちで面接に臨む。が、面接はかってないほど重い雰囲気。志望書に書いた好きな作家3人がかなりマイナーな人だったために「誰これ? 知らないなあ」と言われる。「ちょっと説明してみてくれる?」との言葉に必死で説明するも、反応はいまいち。さらに「君はマイナーなことまでよく知ってるみたいだけど、週刊誌志望なら俗っぽいところが必要なんだよ。君、俗っぽいところある?」と訊かれて支離滅裂な答えを返してしまう。最後、席を立つ時面接官に「勉強になりました」とのお言葉をいただく。これ以上ないほどの見事な負けっぷりである。
 今思い返してみても、この時の質問が今年の活動のなかで一番痛いところを突かれたものだった。悔しさから、この面接のあとTVのワイドショーを連日観続けるようになった(これがのちのちの筆記や面接で効いてくることになるのだが)。


文春そばのドトールでの朝食

 5月25日。文藝春秋1次筆記試験。文藝春秋は、編集者としての力を磨く場として一番良いところだと自分では考えていたので、力が入る。人物説明とSPI。人物説明はヤマが当たるものの6割ほどしか書けなかった。でも通過。
 6月5日。扶桑社筆記試験。SPIと作文。作文でてこずる。昔書いたネタを流用してなんとかしのいだ。通過。
 6月6日。角川書店筆記試験。角川は一つだけ好きなマンガがあったので受験。得意の三題噺が今年は復活。書いていて楽しくなるほどの出来だった。一般教養は記述式なのでかなり難間。しかし、他の人たちも出来てなかったのか無事通過。
 6月7日。文藝春秋2次筆記試験。これ以降は本社で行なわれた。早く着きすぎたために近くのドトールで一休み。ここにはこれ以降毎回お世話になることになる。一般教養は無難な出来。作文はちょっとひねったテーマだったため苦戦するも、三題噺的なだじゃれオチに持ち込み、なんとか仕上げる。
 6月8日。文藝春秋1次面接。昨日のドトールで朝食後、面接へ臨む。面接官は白髪の似合うおじさんだった。短大でバスケ部の監督をしていたことや、出版社でのアルバイトで、銀座〜鎌倉間をスーツ姿で歩いたことなどを話すと好印象を持ってくれた。無事通過。
 6月10日。扶桑社1次面接。3人の集団面接。一緒の2人がともに固い印象の人たちだったので、柔らかめの自分をアピール。『SPA!』の企画や、直前に立ち読みしてきた『LUCi』の特集の話をする。面接官の女性が笑顔を見せてくれて「通過かな?」と感じる。実際、通過。
 6月13日。白泉社筆記試験。マンガ編集者もいいなあなどと考えていた自分が甘かった。マンガ専門の出版社といって侮るなかれ。まる一日、みっちりと筆記試験が行なわれた。作文は2本も書かされ、終わったころにはもうぐったり。すぺてを出しきり、通過。
 6月15日。文塾春秋2次面接。例のドトールでまた朝食を摂る。ほとんどジンクスになってきている。初のディスカッション形式の面接。『文藝春秋。最新号をもとに討論。僕のブースはまず「目次を開いて」と言われ、それぞれ自分が討論したい記事を3つ選んだところでスタート。話し合いの結果、人数が多かった「学級崩壊」「憲法九条」の2つに
ついて討論することに決定。はげしい討論が続くなか、僕は中心に座っていたせいか、いつのまにか話の調整役のような役割をしていた。落ち着いて、孤立している人の意見を聞きだしたり、議論が熱くなりすぎた時に笑いをとったり出来たのは、運もあると思うけど、やはり友人たちとディスカッションした成果だと素直に思った。面接後、作文「絶交の手紙」を書く。再びオチをつけて笑いをとるような作文に仕上げる。これが最終面接に響くことに……。友人たちに感謝しつつ通過。
 6月17日。扶桑社2次面接。ひたすら『SPA!』をやりたいという熱意で押し通す。志望書に「足がでかい」と書いたら「君、深田恭子の足のサイズいくつか知ってる?」と訊かれ、即答で「25センチです」と答える。首を振る面接官。「えっ、じゃあ25・5センチですか?」「26センチだよ」。やってしまった……。おそらく一生忘れません。恭子ちゃんの足のサイズ。でも、笑いはとれて(?)通過。
 6月19日。白泉社1次面接。マンガの企画について訊かれる。一人の面接官の突っ込みが極端に厳しい。残りの面接官が苦笑しながら「それはちょっと」と言うほど。しかし、企画に関しては万全の準備をしていたので、難なく答える。通過。
 6月23日。魔の一日。角川書店の1次面接と扶桑社の最終、文藝春秋の最終がバッティング。緒局角川と文藝春秋を選ぶ。
 午前は角川1次面接。受験者2人の集団面接だったのだが、隣の『マリクレール』志望の人の凄さに感心して、手も足も(口も)出ず。敗退。マンガは趣味にとどめたほうがいいと一人で納得しながらも、今年一番の出来の悪さに気分が沈む。いっきに残りの持ち駒が文嚢春秋と白泉社の2つとなる。追いこまれた感じがして、面接会場でもないのに妙に緊張し始めた。気分を変えるために、またしてもドトールで昼ご飯。考えてみれば文藝春秋の書類を書いたのもドトールだった。サンドイッチを頼張りながらそんなことを思いだし、気含を入れる。


緊張の余り面接室に忘れ物

 午後、文藝春秋最終面接。待合室で、自分が今日の面接最後の受験者だと教えてもらい、緊張度2割噌し。あまりの緊張ぶりに同情されたのか、順番の前の受験者の人たちに「頑張ってください」と励まされ、面接室へ。コの字型に威厳のありそうな役員がずらりと並んだ部屋へと通される。学生生活、電子メディアと出版のこれから、警察署の取材体験、好きな本、たまたま国際ブックフェアで手に入れていた『TITLE』テスト号の話などいろいろと訊かれたが、緊張のあまり、何と答えたかはほとんど覚えていない。社長に「君は作文は全部オチをつけておもしろおかしく書いているけど、これは誰かにそう書けって言われたの?」と間われて、「いえ、そうではないんですけど……そういう性格なんです」と答える。まったくもってなってない。コメディアンか? 僕は。最後に「何か言い足りないことがあったらどうぞ」との言葉をうけて、精一杯の思いを込めて『週刊文春』の特集企画を2つ語す。部屋を出た後、面接室に荷物を忘れたと思い、もう一度部屋に入ろうとすると、人事の方に「待合室に置いて来たんじゃない?」と声をかけられる。ズバリその通り。まだ緊張が解けてなかったらしい。思わず笑ってしまう。やるだけのことはやった……。
 その日の夜、内定通知の電話。「あんなに緊張してたから、受かってて本当によかったね」と言われ、少し泣きそうになった。あとがない就職活動で、常に感じていたプレッシャーからやっと解放された!
 冒頭で引用した小説の主人公は、映画俳優になることを決意し、劇団の面接受験を経て「春秋座」という劇団に入る(このあたりからも文藝春秋との縁を感じるのだが)。朝、新人募集の面接へ赴く主人公と、蒲団に入ったままそれを見送る兄とがこんな会話を交わすシーンがある。
兄「なんだ、もう行くのか。神の国は何ににたるか。」
主「一粒の芥種のごとし。」
兄「育ちて樹となれ。」
 気の利いた言葉を思いつくような知恵は僕にはないので、この引用をもってこれからマスコミ受験に向かう人たちへの励ましとしたいと忠います。これを読んだ皆さんが、希望の道へと進み、大きな樹となることを祈ります。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。