夢のスタートラインに

Tさん/学習院大 出版社内定


  鼻息荒くマスコミ受験スタート

 私の夢はスポーツライター。山際淳司、佐瀬稔両氏が亡くなった今、「次代を担うのは俺だ」と意気込み、鼻息荒くマスコミ就職への門をたたいた。スポーツに閑わることが夢への第一歩と考え、まずはスポーツアナ、記者を日指してテレビ局へ挑む。
 1月14日、まだ3年生、学年末試験も終わらぬうちからフジテレビアナ面接。緊張で、思い通りに話せず。面接者を務めた佐藤里佳アナの笑顔だけが印象に残った。
 2月27日、朝日放送アナ1次面接。面接者は甲子園の実況でおなじみの太田アナ。「ピッチャー佐々岡」など発音のチェックをされるが通過。
 2月28日、フジテレピ一般職1次面接。志望書に書いた高校野球の質問に「校歌歌いましょうか?」PL、天理、帝京の校歌を熱唱する。後ろで他の受験考たちが見守る中の熱唱で、もはや面接から「緊張」の2文字は消えた。
 3月13日、朝日放送アナ2次面接。スタジオに入り、画面に自分の顔が映る中、フリートーク。めくった力ードは「空」。甲子園の青空と植草アナの実況について話すが、時間が余り、失敗。でも、気分よかった。その夜は、毎年2度の甲子園観戦で、大阪を「庭」としている私の案内で、同じ受験者たちと明石焼きを食べに行く。就職活動でできる友達って、いいよね。
 3月22日、毎日放送筆記。作文1200字のところ、950字しか書けなかったが、なぜか通過。阪神ファンを褒めたのがよかったのかな。
 3月24日、ニッポン放送1次面接。以前よく聞いた森高千里の番組について話す。「君、よくハガキくれたでしょ。名前覚えてるよ」。なんと、面接者の一人が森高番組のスタッフだったのだ。当然、森高ネタで盛り上がり、通過。全く世の中何が幸いするか分からない。
 「春はセンバツから」。開幕したセンバツ高校野球を見に甲子園へ。関学の「空の翼」、関大一の「マグマ大使」を聞いて鋭気を養う。甲子園には桜がちらほら。私には、いつサクラサクのだろうか。
 4月8日、毎日放送2次面接。今日決勝のセンバツネタで盛り上がるも、電話は鳴らず。同日、ニッポン放送2次面接。「君は女の子に対してはどうなの」「優しいですよ、みかけは……。だまされるやつが多いんですよ」。面接者、他の受験者とも大爆笑。しかし、笑いをとっても内定はとれず。よい出来だと思った面接に続けてふられ、ここでほぽ放送系をあきらめる。
 とはいえ、私の夢はもの書きになること。これから始まる新聞、出版が本番だ。再び気合を入れ直す。
 4月18日、読売テレビを受験後、産経新聞筆記の受験会場へと駆け込む。易しいといわれている産経だが、ほとんど分からず。作文だけが会心の出来だった。約1週間後に通過の速達が届く。
 4月26日、毎日新聞筆記。相変わらずの勉強不足に作文の失敗。これじゃあ通るわけないか。

  イチローのものまねで余裕の通過

 4月30日、産経新聞1次面接。会場へ向かう途中、携帯が鳴った。親友との会話で緊張がほぐれる。面接では1年生時に出場した「ミスター学習院コンテスト」について訊かれる。「何やるの?」「一人一つ技を披露しました。僕はイチローのマネをやりました」「じゃあここでやって」。前に出て振り子打法の構えをとる。「あ、でも最近変えましたね」と、その当時イチローが取り組んでいたグリフィー打法も披露。「うん、よく特徴をつかんでるな」。お褒めの言葉をいただき、通過。
 5月8日、京都新聞提出&面接。「京郁新聞は高校野球の扱いが小さい」などと語ったあと、MXテレビ筆記。関西テレビ(1次面接)を蹴ってMXテレビを受けるなんて、私ぐらいなものだろう。5月まで来ると確率の高いほうを選ばざるを得ない精神状態になる。
 5月9日、広島テレビ1次面接。テレビ新広島1次面接&筆記&集団討論。長いだけの一日だったが、広島テレビで朝日放送アナで一緒だった友人と再会。「まさかこんなところで会うとは」などと話し、楽しかった。
 5月10日、中日新聞筆記。集英社と重なり迷うがスポーツ紙のある中日へ。一般常識も作文もそこそこの出来だったが敗退。くそーベイスターズ頑張れ。
 5月15日、産経新聞2次面接。最後の一つ前だというのにわずか5分。しかし、言いたいことの8割は言えた。心はもう最終面按。気分良く新前橋へ乗り込み、上毛新聞筆記。気分がいいとペンもスラスラ、作文も完璧。
 5月19日、郵便屋のバイクの音に目を覚ます。ところが、速達だと鳴らすはずのチャイムが鳴らない。「まさか」。顔はもうちびまる子ちゃんの線入り状態。無念の産経敗退。午後、気を取り直して日刊スポーツ提出&面接。5分程度で終わる人が多い中、15分以上も話しこみ、こちらは余裕の通過。
 5月22日、MXテレビ1次面接。志望書通りの質間で余裕の通過。
 5月23日、文藝春秋書類落ち。今に見てろ、向こうに頭下げさせて『ナンバー』に原稿書くようになってやる。

  「驚き野茂の木」!?

 5月24日、デイリースボーツ筆記。英語は和製野球用語の英語訳など。恒例の見出しつけも会心の出来。野茂ホームランの記事に「驚き野茂の木」結構イケてませんか?
 5月25日、竹書房から電話。以前竹書房の雑誌のライター募集に応募した私の作品を評価してくれ、「書類審査はパスだから受けて」と言われた。
 5月27日、京都新聞筆記。全然できなかった。今思えばここの問題(特に英語)が一番難しかったような気がする。
 5月29日、スポニチ1次面接。書類提出時の作文を褒められた以外は特に何も言われず、訊かれず、難なく通過。
 5月30日、報知新聞筆記。SPIのようなもの。これでかなりの人が落とされるらしい。
 6月1日、MXテレピ2次面接。六大学野球の話で盛り上がる。私の面接中に次の人が入ってきてしまうほど時間も延びたが、なぜか敗退。帰り際、ゆりかもめから見た自由の女紳像。小さくなっていくその姿とともに、膀利の女神も去ってしまったのだろうか。
 6月5日、スポニチ大阪筆記。簡単だった。
 6月6日、日刊スポーツ筆記。報知よりも難しいSPIに近い問題。なんとか通過。
 6月7日、スポニチ筆記。投手の防御率の計算など、スポーツ好きなら大丈夫。
 6月9日、竹書房筆記。「選考は6月中に終わります」と言われた。
 6月10日、上毛新聞1次面接。得意の高校野球ネタ。「群馬はまだ優勝がないんだよね」「はい、初優勝の記事は僕が書きます」。面接者の一人に「君はいいキャラクターしてるよ」と言われ通過を確信。
 6月13日、デイリースポーツ1次面按。ウケを狙ってもダメそうな雰囲気。あまり質問されず不安だったが通過。
 6月16日、竹書房1次面接。何と、高校時代前の席だった友人と一緒に面接。私は通ったが友人は……。あとで聞いたら私たちはハメられたらしい。
 6月17日、日刊スポーツー次面接。15日の作文とセット。これぞ圧迫という厳しい面接。しかし、気丈に対応して結果は○。私は購読料を訊かれ、答えられず怒鳴られた。
 6月18日、スポニチ大阪最終面接。まずまずの調子に、今日で就職活動も終わりだ、などと考えていたが、まん前の社長が首を傾げるしぐさ。原因不明のまま涙の敗退。
 6月22日、白夜書房筆記。SPI。その後スポニチ2次面接。価値観の違う面接者に作文の内容を否定され、もう一人のほうには「君の高校、とんでもない野球してくれたんだよね」と言われる。愛する母校をバカにされ、キレた。もはや面接にならず敗退。もうスポニチを賞うことはないだろう。

  大リーグのユニホーム姿で面接

 6月23日、竹書房2次面接。私服の指示があり大リーグのユニホームを着て面接へ。案の定、野球ネタになり完勝。
 6月24・25・26日、日刊スポーツ健康診断&面接。一日でやってくれよ、と思いつつ会場へ。適性面接では歯ブラシ、カンガルー、豆腐の3つから連想するものを書けと言われる。1分間という響きに焦り、うまくいかず。敗退。
 6月30日、竹書房3次面接。デイリーと重なり迷うが「6月中に終わる」の言葉を信じて竹書房へ。社長の風貌に一瞬ビビるが、冷静に対応。「お前は元気があっていいな」の声に通過を確信。同日、報知新閉からTEL。大リーグオールスターの特派員に選ばれる。
 7月1日、日刊スポーツ北海道筆記&面接。
 7月5日、アメリカヘ出発ツ。6日の上毛最終面接よりオールスターを選んでしまった。
 7月10日、竹書房最終面接。居酒屋「どん底」にて飲み会。内定を言い渡されると思ったら「これも選考です」とのこと。飲みが足りなかったのか、社長と席が遠かったのが悪いのか、謎の敗退。出席者はわずか7人。「6月中に」の説明は何だったのだろう。まさに「どん底」。
 7月21日、白夜書房1次面接。竹書房のことを話したら同情してくれた。話のわかる人たちかもしれない。
 7月24日、日刊スポーツ北海道面接(2回)&集団討論。一緒に受けた人から「君は受かるよ」と言われるほどの出来だったが、敗退。
 7月30日、白夜書房最終面接。自分の企画も提出させられる。最後の持ち駒だったにもかかわらず緊張はなし。社長以下面接者の表情がにこやかだったのが印象に残った。
 8月5日、翌日開幕する甲子園へ向かう途中、米原駅で携帯が鳴った。「白夜書房内定だって」母のその声に、車中で読んでいた『ニュースファイル』を閉じた。「夢へのスタートラインに立てる」。何ともいえない、ホッとした気持ちだった。

  夢をあきらめないで

 半年以上に及ぷ就職活動。友人たちが次々にマスコミをあきらめていく中、最後まで、頑張れたのはやっぱり強い気持ちだと思います。これから受験されるみなさんもぜひ夢を持ち続けて下さい。あきらめるのは簡単です。が、後悔しても時間は戻ってきません。頑張っていればチャンスはきっとやってきます。苦しいとき、辛いときはこの歌を閉いてドさい。
 「夢をあきらめないで」(岡村孝子)
 この歌こそ私からのメッセージです、


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。