思い切って、1歩を

Mさん/私立大 出版社内定


 絵や演劇に親しむうちに、芸術や文化を支えていける仕事につきたいと考えた。大好きな芝居をつくるように、何もないところから何かをつくるような仕事がしたい。しかしこの就職難。3年の秋ごろまで公務員も考えていたため、マスコミ塾に通っているはずもない。人づてに聞いた『マス読』を立ち読みしては、マスコミ戦線の倍率におののく日々が続いた。それでも、公務員と違って、マスコミの結果は早く出てくれる。思い切って、一歩を踏みだしてみることにした。

  他の受験者に圧倒される

 まずは2月27日、NHK大阪文化センターのマスコミ講座に行ってみる。受験者の目的意識の明確さに感心すると同時に、自己アピールの強烈さに驚く。私は模擬面接をビビリながら見つめていた。私もこんなにしゃべり倒せるようにならないかんの?早くも不安がよぎる。気の小さい私が、ついていけるのかどうか。
 3月は、書類づくりと筆記試験対策に費やした。3月からマスコミ対策というのも無謀だが、やるしかない。漢字と時事問題のノルマを無理矢理課した。『朝日キーワード』は辞書代わり。一発目の4月16日、日経新聞に間に合いますように!
 4月12日、NHKの予備面談。緊張のあまりむやみに笑顔。初面接がNHKとは。一般企業を受ける友達は、とりあえず練習だと言って手当り次第回っている。不安になるが、現時点でやりたいことがはっきり決まっているのは、幸せなことかもしれない。
 4月16日、日経新聞筆記試験。部屋の狭さと問題の難しさに呆れる。通過の電語が夜中の11時すぎ、入浴中にかかってきた時は、本気でイタズラ電語かと思った。でも少しずつ自信が出てくる。
 4月18日は関西テレビ、19日はNHKと朝日新聞の筆記を受ける。まあ人の多いこと。
 4月21日、日経新聞1次面接。最後の方だったので、同じ時間帯の人たちといろいろ話ができた。私の前の順番の男の子と話していて、大学と学部が同じ、苗字は1字違い、同じ活動内容のサークルで同じ役職についていることが判明する。すごい偶然があったもんだ。事業部志望まで同じ、しかも彼の方が数段堂々としている。動揺しまくったが、開き直って「さっきの人とかぶるんですけどっ」と自分から言って、文化事業への思い入れを精一杯しゃべった。今思えばボロボロだったけど、まさかの通過。
 会心の出来だったNHKと朝日に落ち、4月26日、毎日新聞筆記。非常に眠く英語の時には3行ごとに意識を失っていた。ベタすぎた作文「父」の出来を考えても、ここの通過は最大の謎。しかし、日経の2次と重なって、泣く泣く1次面接を辞退することに。
 4月27日、朝日放送1次面接。説明の新入社員の方も面接者も、本当に明るくざっくばらん。在阪局しか受けなかったことを後悔した。しかし面接は笑いがとれず、×。山田雅人ナマで見たし、まあいいことにするか……。
 5月1日、日経2次面接。ついこの間まで受けるかどうかさえ迷っていたマスコミなのに、1次面接通って、束京本社にいるなんて。夢のような気持ちだった。本当に文化事業に携れるかもしれない。落ちついてしゃべれたものの、結果はX。毎日蹴って来たのに!でも1次で会った人に会えて、少しリラックスできたのは嬉しかった。
 5月7日、関テレ1次面接。ここも社員の方が本当に明るい。今春入社の女性がとてもフレンドリーだった。舞い上がってしまい、桂南光の話ぐらいしかできなかったのに、謎の通過。あのこわばった笑みで、ねえ……。
 5月10日、読売新聞筆記。1字違いの彼に再会する。日経最終だって、いいなあ。作文は「プロとアマ」だった。多くの人が有森問題に触れるなか、スポーツに疎い私は、漫画「プロのひとりごと」をネタに、雀士は「プロ」か、延々論じた。これで通してくれた読売に、嬉しいけどしばし唖然。
 5月15日、読売1次面接。1字違いくんと、もうひとり、日経で会った男の子に会う。控室では、私たち3人だけしゃべりまくっていた。面接の様子も報告してくれ、少しリラックス。落ちついて笑顔で返せるようになってきた。通過。2次でもあのふたりに会えるかな?
 5月16日、関テレ2次面接。明るくしゃべったものの、新聞社第一志望であることがばれ不通過。このへんから雲行きに陰り。
 5月21日、読売2次面接。なんとあのふたりも呼ばれてた!本当に嬉しい。最後の全国紙ということで縮みあがる私を、とりとめのないトークで和ませてくれた。しかし面接は散々。うなだれて控室に戻ると「お疲れさん。最終で会えたらいいな」の書き置きが…。それを握りしめ、放心状態で新幹線で帰った。もしかしたら読売入れるかも、と私は夢を見てしまった。その夢が、遠くなるのが分かる。期待しなければよかったのだろうか。
 5月22日は、本当に辛かった。連絡待ちの6時から9時まで、涙が止まらなかった。結果は×。分かっていたけれど、悲しくてしょうがない。同時に受けていた一般企業は圧迫面接の末落ちるし、周りは次々決まっていく。泣いてばかりの日々が始まった。
 5月24日、神戸新聞筆記。あまりの落ち込みに、さっさと帰ることばかり考えていたのに、通過。
 5月28臼、京都新聞筆記。ひとりで受けに行き、ひとりで帰る。当り前のことがさびしい。いままで自分がいかに幸せだったかを思った。作文に、NHK文化センターと同じテーマが出て、秘かに大喜び。通過。

  泣いててもしようがない

 読売新聞の幻想から逃れるのに、1週間かかった。文化事業の夢をひきずりながら、就幟課でこれから参加できる会社説明会を必死で探す。そのギャップが辛い。いつになったら就職できるんだろう。それでも、人生うまくできているもので、タイミングよく古い友達から電話をもらったりして、なんとか立ち直ることができた。泣いててもしょうがない!
 5月5日、京都新聞1次面接。本当に入りたくてしょうがない。業務志望は15人ほどで、仲良くなることができた。地方紙しか受けないのんびり屋さんにも会えて、焦りが少し消えたように思う。ここの不通過も本当に悲しかった。
 6月10日、神戸新聞1次面接。京新で話した人を見つけホッとする。面接も慣れてきて快調だったが、今年は事業の募集がないことを、面接の場で初めて知らされる。そんなバカな……。そこからあとは記憶にない。神戸に落ちて、新聞社は全て終わってしまった。
 6月頭から一般企業も大量に回り、もちろん落ちたりもした。しかし5川末に一度ビッグウェーブを体験しているので、「さあ次」と割り切ることができた。人間、強くなれるものである。会社回りも辛くなくなった。
 6月14日、角川書店筆記試験。あまりの倍率に出版は敬遠しがちだったが、受けてみた。これがあとあと効いてくる。
 私は小さめの会社にウケるようで、日経広告、日本経済社、JR東海工ージェンシーといままでがウソのように次々進んだ。6月末には、大手スーパーから初内定をもらう。これで落ちつくことができた。行くところはあるんだから、自信を持とう。
 7月2日、角川書店1次面接。4対2の、こちらがふたりの面接だったおかげで、緊張がほぐれた。私は好きな雑誌が『ビッグコミック』、制作部門志望ということで、珍しがってもらえたようだ。○。
 7月6日、日経広告と日本経済社の最終がバッティング。大阪で受けて、即束京に飛ぶ。両方とも本当にいい会社で、本当に迷った。が、結局どちらも落ちる羽目に。仕方ないなあ。
 7月7日、角川2次面接。「ミニ文庫の紙はなぜあんなにすぐ曲がるんですかっ」と疑問をぶつける。聞いてほしいことを訊いてくれて、言いたい放題だった。通過。
 7月14日、角川3次面被。さすがに緊張した。また夢を見ていいんだろうか。話しはじめると、不思議に落ちついた。性格検査の結果を見て、「これで仕事大丈夫なの?」と言われたり、面と向かって「キミ、なんか暗そう」と言われたり、冷や汗ものだった。厳しい面接だったが、自分なりに、あいまいでなくはっきりと説明しておいた。まさかの通過。内定だ!と勝手に喜んだら、次が最終面接だという。そっそんなあ……。
 7月21日、角川最終。13人全員が一室に集められる。今日も落とされるのかな、などと話をしていると、人事の方は今日は大丈大だという。本当にホッとした。
 3人一組で社長と面談。本当に雑談だった。最終面接は呆気なく終わり、その後すぐ内定。右も左も分からず始めたマスコミ就職沽醐は、現実のものとして実を結んだ。

  思い切って一歩を踏みだそう!

 この不景気に、やりたいことを仕事にしようと思うこと自体まちがいかもしれない、と真剣に悩んだこともあった。周りが手当たり次第説明会を入れまくる中、ひとり家で漢字の勉強をしていたおかげで、一般企業の内定も6月末までなかった。それでも、マスコミを回ってよかったと思う。志を同じくする、同じところでつまずいて脳んでいる人にも会えたし、やりたいことに向かう人間の、気持ちのいいエネルギーにたくさん触れることもできた。
 私はどちらかといえば地昧だし、よく緊脹もしてしまう。でもそんな私なりに、緊張するのなら志望書のコピーを見て徹底的に質問を考えるとか、できる限りの努力をした。やることを精一杯やれば、いつか自分に合う会社に入れる、そう信じられるまでになった。マスコミ一本に絞るほど大胆になれない人も多いと思う。筆記対策に恐れをなして、踏みだせない人もいるだろう。でも、そんな人でも、思い切って一歩を踏みだしてほしいと思う。結果はどうであれ、マスコミを回った経験は、貴重なものになると思う。頑張ってみて下さい。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。